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ホーム > 研究紹介 > イベント > 森林総合研究所関西支所令和3年度公開講演会の開催報告

更新日:2021年12月10日

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森林総合研究所関西支所令和3年度公開講演会の開催報告

開催報告

2021年10月22日(金曜日)13時00分より、龍谷大学響都ホール校友会館にて「森林総合研究所関西支所令和3年度公開講演会」を開催しました。この公開講演会は、地域の皆様に森林の不思議さや奥深さを「解りやすく楽しく」知っていただくことを目標に毎年開催しているものです。
今回のテーマは「森林(もり)の今昔物語」と題して、外部からお招きした特別講演の先生2名と一般講演を行う関西支所職員2名に、私たちが漠然と描いているイメージとは異なる昔の森林(もり)の姿や私たちの祖先が昔の森林(もり)とどのように関わり利用してきたのか、といったことについてお話しいただきました。
新型コロナウイルス感染症対策のため、今年も制約のあるの中での開催となりましたが、このことについてもご理解、ご協力いただき誠にありがとうございました。
来場者の皆様から多くのご質問をいただき、この話題に対する皆さまの関心の高さが伺えました。また、アンケート調査によるご意見は次年度講演会の参考といたします。ご協力ありがとうございました。

 

動画公開

講演をYouTubeで公開(令和3年度3月末日まで)しています。講演名をクリックすると動画ページに移動します。

基調講演1.先史時代の西日本におけるイチイガシ林とイチイガシ利用(明治大学 黒耀石研究センター 客員教授 能城 修一 氏)

基調講演2.花粉が語る京都の森の移り変わり(京都府立大学大学院 生命環境科学研究科 講師 佐々木 尚子 氏)

一般講演1.世界自然遺産「沖縄やんばる」の森の今昔(森林総合研究所関西支所 森林資源管理研究グループ長 齋藤 和彦)

一般講演2.絵図・古写真からたどる山の風景の変化(森林総合研究所関西支所 森林環境研究グループ長 岡本 透)

森林総研関西支所の講演会に寄せられた質問と回答 

質問 1. 武道具(木刀、薙刀柄)以外のイチイガシを用いた製品や産地について。回答へ
質問 2. イチイとは何か。回答へ
質問 3. 農具材としての利用で今よくみられるアラカシ、スギ、ヒノキについてはどうか。回答へ
質問 4. 深泥池について、時代によって深さ(時間と深さの関係)が違うのはなぜか。回答へ
質問 5. 7-11世紀に、スギ、ヒノキが増えてくるのはどうしてですか。回答へ
質問 6. 木を切って取り去ってしまったりすると、養分がなくなるとありましたが、皆伐などを行うことは大丈夫なんでしょうか。回答へ
質問 7. 下鴨の糺の森は太古の森といわれていますが照葉樹(常緑広葉樹)は少なく、エノキ、ムクノキ、ケヤキなどが多く見られます。その原因は①水害、②戦乱などかなと考えていますが、いかがなものでしょうか。また糺の森の未来の姿はどのような植生だと推察されますか?回答へ
質問 8. 松はどこから来たのですか。松竹梅ということを考えると中国からですか。回答へ
質問 9. 西日本では5世紀ごろにアカマツが広がったと何かで読んだ。そもそもアカマツは日本列島にあったのか、朝鮮半島から渡来したのか。回答へ
質問 10. 4-5世紀は寒冷化と鉄器の普及で燃料資源として木材の伐採が盛んになった(→中国山地でのたたら製鉄との関係)。また農業の広がりによって、肥料源として落葉・下草・刈敷利用が盛んになり林地の富栄養化が阻止された(焼畑農業はどうか)。回答へ
質問 11. アカマツがとくに近世で拡大した理由は?回答へ
質問 12. 花粉分析から分布を復元できる樹種類は限られていると思うのですが、現在の森林の種組成もしくは種数の何%くらいが花粉分析可能なのでしょうか。虫媒の樹種や動物散布の樹種は難しそうにも思っています。回答へ
質問 13. 4-5世紀は寒冷化と鉄器の普及で燃料資源として木材の伐採が盛んになった(→中国山地でのたたら製鉄との関係)。また農業の広がりによって、肥料源として落葉・下草・刈敷利用が盛んになり林地の富栄養化が阻止された(焼畑農業はどうか)。回答へ
質問 14. 松自身の需要は、燃料源や建材としてどうだったのか。回答へ
質問 15. 花粉分析から分布を復元できる樹種類は限られていると思うのですが、現在の森林の種組成もしくは種数の何%くらいが花粉分析可能なのでしょうか。虫媒の樹種や動物散布の樹種は難しそうにも思っています。回答へ
質問 16. (今日の各講演と直接関係ありませんが)植物考古学の分野で「全縁率」―気温が高い地ほど全縁の種の数が多い、気温と確かな相関関係がある―は使われているのですか?回答へ
     
回答 1.

(武道具(木刀、薙刀柄)以外のイチイガシを用いた製品や産地について。) 

現在の利用状況は、私には分かりません。1912年に刊行された「木材の工芸的利用」によると、イチイガシ材の利用として、櫓羽、槍柄、鍬鋤柄、体操平行棒、洋傘柄、指物(煙草盆、額縁、短冊掛)、荷車、軍用砲車、下駄歯、算盤枠があげられています。櫓と槍柄としては、霧島周辺が産地としてあげられており、当時はイチイガシ材の8割が宮崎から出荷され、延岡や加治木、水俣からも少量出荷されていたそうです。(能城)

回答 2.

(イチイとは何か。) 

分かりません。図鑑類にも語源は不明としているものがほとんどです。(能城)

回答 3.

(農具材としての利用で今よくみられるアラカシ、スギ、ヒノキについてはどうか。) 

1912年刊行の「木材の工芸的利用」によると、当時、一般的なカシ材として扱われたのはシラカシとアカガシの木材で、イチイガシ材はもっぱら櫓材とされていたそうです。イチイガシ以外のカシの種はまだ木材の構造からは判断できないため、過去のアラカシ材の利用については分かっておりません。スギとヒノキは約10000年前の縄文時代早期から日本海側の地方では土木材などに利用されていました。(能城)

回答 4.

(深泥池について、時代によって深さ(時間と深さの関係)が違うのはなぜか。) 

堆積物は、年々同じ速度で溜まるとは限りません。池や湖の水深が変化すれば、その中に生育するプランクトンや水生植物の種類や量が変わります。その結果、湖底に積もる有機物(動植物遺骸)の量が変わります。また、水温が変われば有機物が分解される速度も変わります。また、池や湖の外から水と共に流れ込む土砂の量によっても、湖底堆積物が溜まる速度(堆積速度)は変化します。堆積物の質の変化と見比べながら、堆積環境を読み解いていく必要があります。(佐々木)

回答 5.

(7-11世紀に、スギ、ヒノキが増えてくるのはどうしてですか。) 

当日の質問コーナーでも少しお話ししましたが、スギやヒノキは花粉生産量が多く、飛散距離も長いことが知られています。7-11世紀にスギやヒノキの花粉の割合が高くなるのは、深泥池周辺の森林が伐採されたために、周辺の山地(比叡山や北山)から飛んでくるスギやヒノキの花粉が相対的に多くなったためではないか、と考えています。(佐々木)

回答 6.

(木を切って取り去ってしまったりすると、養分がなくなるとありましたが、皆伐などを行うことは大丈夫なんでしょうか。) 

樹木のうち、幹は大半が炭素でできていますが、葉には窒素などの養分が多く含まれています。土壌養分を考える上では、葉を林地から取り去ることが大きな問題になります。現在の林業で実施される「皆伐」は、植林した樹木をおよそ50年に一度、切って持ち出す、というサイクルです。搬出した材木の分だけ、養分が減るのは確かですが、伐採するまでの間に枝打ちなどの手入れをした枝葉、自然に落ちた枝葉は土壌に還ります。また伐採時に枝葉を林内に残し、幹だけを搬出してやれば、林地の生産力を維持することにつながります。その土地の条件(土壌養分や斜度、降水量や日照など)に配慮して皆伐をする間隔を決めてやる分には、「木が生えられなくなる」ほど養分が減ってしまうことはありません。「土地が痩せる」ほど徹底的に枝葉や下草を取り去るには、かなりの労力がかかります。(佐々木)

回答 7.

 (下鴨の糺の森は太古の森といわれていますが照葉樹(常緑広葉樹)は少なく、エノキ、ムクノキ、ケヤキなどが多く見られます。その原因は①水害、②戦乱などかなと考えていますが、いかがなものでしょうか。また糺の森の未来の姿はどのような植生だと推察されますか?)

糺の森のある下鴨神社は、鴨川扇状地とよばれる場所にあります。かつて、自然状態で賀茂川や高野川が氾濫を繰り返し、砂礫が溜まった場所で、地下水が豊富にあるのが特徴です。エノキ、ムクノキ、ケヤキなどは、水分を多く要求する樹種とされています。したがって、ご指摘の①に近く、繰り返す氾濫によって砂礫がたまり、水捌けが良いが地下水の通り道になっている場所に、そういう立地を好むエノキやムクノキ、ケヤキが生育している、というのが現状だと思います。将来的にどうなっていくかは、生えてきた稚樹を観察すると推定できます。刈り払いなどの手入れがされていない間は、鳥が種子を運ぶ常緑樹の稚樹が生えていませんか。この先も、河川の氾濫が人間の努力で止められ続けるならば、徐々に常緑広葉樹が増えていく可能性はあります。糺の森については、四手井綱英先生が編集された「下鴨神社糺の森」(ナカニシヤ出版、1993年)という書籍があります。糺の森の歴史についても触れられていますので、ご紹介しておきます。(佐々木)

回答 8.

(松はどこから来たのですか。松竹梅ということを考えると中国からですか。) 

今回お話ししたアカマツについて、大阪市立大学の山田敏弘先生がまとめられた日本産のマツ属化石の記録(Yamada et al. 2014)によると、もっとも古いアカマツ化石は、約200万年前の地層(滋賀県日野町の蒲生層群)で発見されています。アカマツは、約250万年前以降に日本に現れ、100万年前から50万年前ごろには、日本各地に広がったとされています。ウメのように、中国大陸から人間によって持ち込まれた植物とは、分けて考えた方がよさそうです。(佐々木)

参考文献:Yamada, T., Yamada, M. and Tsukagoshi, M. (2014) Fossil records of subsection Pinus (genus Pinus、 Pinaceae) from the Cenozoic in Japan. Journal of Plant Research 127: 193-208.

回答 9.

(西日本では5世紀ごろにアカマツが広がったと何かで読んだ。そもそもアカマツは日本列島にあったのか、朝鮮半島から渡来したのか。) 

約200万年前の地層から、アカマツ化石が見つかっています。アカマツは、日本列島に人間が渡ってくる前から日本列島に生育していた植物です。(佐々木)

回答 10.

 (4-5世紀は寒冷化と鉄器の普及で燃料資源として木材の伐採が盛んになった(→中国山地でのたたら製鉄との関係)。また農業の広がりによって、肥料源として落葉・下草・刈敷利用が盛んになり林地の富栄養化が阻止された(焼畑農業はどうか)。)

ご指摘のように、木材の伐採のスピードは、鉄器の普及など道具の発展とも大きく関わっています。1980年代ごろの研究では、西日本では5世紀ごろにアカマツが広がった、とされていましたが、その後、各地で花粉分析をして、放射性炭素年代で詳しく年代を測ってやると、アカマツが増加する時期は、西日本全域でぴったり一致するわけではなく、場所によって少しずつ違うことがわかってきました。このアカマツ増加時期の違いは、各地の人口や農業の方法(使える道具や肥料の種類など)、窯業や製鉄業などの産業の有無など、地域の事情を反映しているのではないかと考えています。伝統的な焼畑では、伐倒した材や枝葉をその場で燃やし、その灰を肥料として生かします。数年間、順繰りに様々な作物を栽培した後、数十年の休閑期をおいて、その間に育った樹木を伐倒して焼いて養分として土地に返す・・・というサイクルを持っています。養分の多くがその場で循環するので、適切な休閑期をおけば、林地が貧栄養化することはありません。(佐々木)

回答 11.
(1)

(アカマツがとくに近世で拡大した理由は?) 

お話ししたように、燃料材や落葉・落枝・下草などが数百年にわたり繰り返し採取されたこと、また近世になって人口が増加し、これらの森林資源の需要がさらに増加したことによって採取頻度が高まり、林地の土壌が痩せてアカマツに好適な(ほかの植物が生えにくい)環境ができあがったことによると考えています。(佐々木)

回答 11.
(2)

(アカマツがとくに近世で拡大した理由は?)

近世の京都周辺にアカマツが広く分布していたことは、江戸時代に発行された観光ガイドブックである名所図会の挿絵を見るとよく分かります。さらに、アカマツ林の多くが松茸山として利用されていたことも確認することができます。こうした松茸山は、少なくとも昭和初期まで京都、大阪、奈良周辺に広く分布していました。マツタケは地面がむき出しになるような栄養に乏しい場所を好むことが知られています。明治から昭和初期にかけてマツ林で撮影された写真を見ると、林床では地面とマツの根がむき出しになっていることが多いため、当時は落ち葉かきが強度に行われていたことを推察することができます。集められた松葉は、現在の五山の送り火でも助燃剤として使われていることから分かるように、かつては焚き付けとして広く利用されていました。(岡本)

回答 12.

 (花粉分析から分布を復元できる樹種類は限られていると思うのですが、現在の森林の種組成もしくは種数の何%くらいが花粉分析可能なのでしょうか。虫媒の樹種や動物散布の樹種は難しそうにも思っています。)

クスノキ科の花粉は、花粉壁が他の分類群よりもバラバラになりやすいため、残りにくいとされています。それ以外の樹種は、花粉の保存自体は問題ないのですが、ご指摘のように花粉の散布数が少ない(あるいは飛散距離が非常に短い)分類群は、堆積物からみつかる確率が大変低くなります。例えば、スミレやランの花粉が堆積物からみつかることは非常に稀です。手元にある「第2回自然環境保全基礎調査・植生調査報告書」(1979)に掲載されている植生調査票に出てくる樹種のうち、花粉分析で検出できるものを調べてみたところ、京都府宮津市のブナ−ミズナラ群落で89%、大江町のヒメアオキーウラジロガシ群集で83%でした。ただし、多くの植物は、花粉では属レベルでの同定です。「分布を復元できる」かどうかをどう捉えるかによって回答が違ってきますが、ひとまず、堆積物に花粉が入っていてくれれば、樹種の8割程度は検出可能、ただし、花粉の散布距離が著しく短い樹種は、周辺に生えているのにたまたま堆積物に花粉が入ってこない、という場合もありえる、とお答えしておきます。(佐々木)

回答 13.

 (4-5世紀は寒冷化と鉄器の普及で燃料資源として木材の伐採が盛んになった(→中国山地でのたたら製鉄との関係)。また農業の広がりによって、肥料源として落葉・下草・刈敷利用が盛んになり林地の富栄養化が阻止された(焼畑農業はどうか)。)

ご指摘のように、木材の伐採のスピードは、鉄器の普及など道具の発展とも大きく関わっています。1980年代ごろの研究では、西日本では5世紀ごろにアカマツが広がった、とされていましたが、その後、各地で花粉分析をして、放射性炭素年代で詳しく年代を測ってやると、アカマツが増加する時期は、西日本全域でぴったり一致するわけではなく、場所によって少しずつ違うことがわかってきました。このアカマツ増加時期の違いは、各地の人口や農業の方法(使える道具や肥料の種類など)、窯業や製鉄業などの産業の有無など、地域の事情を反映しているのではないかと考えています。伝統的な焼畑では、伐倒した材や枝葉をその場で燃やし、その灰を肥料として生かします。数年間、順繰りに様々な作物を栽培した後、数十年の休閑期をおいて、その間に育った樹木を伐倒して焼いて養分として土地に返す・・・というサイクルを持っています。養分の多くがその場で循環するので、適切な休閑期をおけば、林地が貧栄養化することはありません。(佐々木)

回答

14.
(1)

(松自身の需要は、燃料源や建材としてどうだったのか。) 

アカマツの材は、脂分を多く含み、火力の強い燃料材として知られていますが、考古遺跡で出土した燃料材(炭)の分析では、とくにアカマツ材が多いわけではなく、落葉ナラ類や常緑カシ類、その他のいわゆる「雑木」が多く用いられています(伊東・山田2012)。建築材としては、民家の梁などに利用されています。しかし、京都府・兵庫県・滋賀県の考古遺跡で出土した木製品の分析(藤田・阿刀2012)では、古代以降に建築部材として多く用いられた樹種はヒノキ、コウヤマキ、クリ、カヤとされており、アカマツが建築材として特別多く使われていたわけではないようです。(佐々木)

参考文献:伊東隆夫・山田昌久編(2012)木の考古学.海青社.藤田 淳・阿刀弘史(2012)北近畿―京都府・兵庫県・滋賀県.伊東隆夫・山田昌久編「木の考古学」224-240.海青社.

回答

14.
(2)

(松自身の需要は、燃料源や建材としてどうだったのか。)

近世の江戸の出土木材をみると、基本的にスギ、ヒノキ、アスナロ、モミ属などが使われつづけており、18世紀になるとアカマツがそれに加わります。とくに木樋とその継手には18世紀以降、アカマツが多用されたという結果が日本橋一丁目遺跡や汐留遺跡で出ています。近世の社寺建築の木材を調べると、アカマツが多用されているのは小屋組と呼ばれる屋根の骨組みの部分です。近世の後半になると、森林資源の枯渇からアカマツが多用されるようになるのは確実ですが、利用される部位はスギやヒノキとは異なっていたと思います。(能城)

回答

14.
(3)

(松自身の需要は、燃料源や建材としてどうだったのか。)

京都府丹後地域において、江戸、明治、昭和初期に建てられた民家で使われている木材の樹種、その木材が建物のどこに使われていたかを調べた研究によると、マツは梁や桁などの構造材として、太さの大きな大径材が多く使われています。建築時に集落の近くにあったマツ林のマツを建材として利用していたと考えられています。(岡本)

回答 15.

 (花粉分析から分布を復元できる樹種類は限られていると思うのですが、現在の森林の種組成もしくは種数の何%くらいが花粉分析可能なのでしょうか。虫媒の樹種や動物散布の樹種は難しそうにも思っています。)

クスノキ科の花粉は、花粉壁が他の分類群よりもバラバラになりやすいため、残りにくいとされています。それ以外の樹種は、花粉の保存自体は問題ないのですが、ご指摘のように花粉の散布数が少ない(あるいは飛散距離が非常に短い)分類群は、堆積物からみつかる確率が大変低くなります。例えば、スミレやランの花粉が堆積物からみつかることは非常に稀です。手元にある「第2回自然環境保全基礎調査・植生調査報告書」(1979)に掲載されている植生調査票に出てくる樹種のうち、花粉分析で検出できるものを調べてみたところ、京都府宮津市のブナ−ミズナラ群落で89%、大江町のヒメアオキーウラジロガシ群集で83%でした。ただし、多くの植物は、花粉では属レベルでの同定です。「分布を復元できる」かどうかをどう捉えるかによって回答が違ってきますが、ひとまず、堆積物に花粉が入っていてくれれば、樹種の8割程度は検出可能、ただし、花粉の散布距離が著しく短い樹種は、周辺に生えているのにたまたま堆積物に花粉が入ってこない、という場合もありえる、とお答えしておきます。(佐々木)

回答

16.
(1)

 ((今日の各講演と直接関係ありませんが)植物考古学の分野で「全縁率」―気温が高い地ほど全縁の種の数が多い、気温と確かな相関関係がある―は使われているのですか?)

全縁率は第三紀の植物化石などでは検討されていますが、考古学で扱う時期になると、氷床コアや珊瑚、年輪といった様々な情報から過去の気候環境をより直接に復元することが可能ですので、全縁率を検討することはありません。(能城)

回答

16.
(2)

((今日の各講演と直接関係ありませんが)植物考古学の分野で「全縁率」―気温が高い地ほど全縁の種の数が多い、気温と確かな相関関係がある―は使われているのですか?)

主に縄文時代以降を対象にしている日本の植物考古学の分野では、「全縁率」はそれほど使われていないと思います。というのは、全縁率が変わるほど植物の種類が入れ替わるような大きな植生変化は、日本列島にヒトが渡ってきた数万年前以降、1サイクルしかおこっていないからです。過去数十万年間の気候の変化を復元する手法としては、より詳細な時間軸で気候復元ができる、海底堆積物や氷床コアの安定同位体比を使う方法が主流です。植物化石の全縁率を使って過去の気候を復元する方法は、十万年周期の氷期−間氷期変動、あるいはもっと長い地質学的な時間を対象にする古植物学、古生物学、古気候学の分野で、利用されています。(佐々木)

 

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