早池峰の隔離小集団の意義

アカエゾマツはマツ科トウヒ属バラモミ節の針葉樹で、北海道では山地帯から亜高山帯にかけて広くみられる主要樹種のひとつである。トドマツ、エゾマツ、ダケカンバ、ミズナラなど多様な樹種と混交することが多いが、特殊な立地環境(蛇紋岩、岩礫地、土石流地、火山、湿地など)では純林をつくることもある。アカエゾマツの分布北限はサハリン南部、東限は南千島(択捉、国後、色丹)、西南限は渡島半島で、本州以南には分布しないとされていた。ところが岩手県北上山地の早池峰(1,917m)にも存在することが1960年に発見された。早池峰のアカエゾマツ隔離小集団は学術的にきわめて貴重であり、国の天然記念物、自然環境保全地域に指定され、保全されている。
早池峰のアカエゾマツ自生地は蛇紋岩地帯にある。最終氷期に生産された蛇紋岩の巨礫が斜面上に不安定な状態で多数存在し、豪雨の際に土石流を引き起こす。この一帯はいわば「土石流の巣」で、新旧粗細の土石流堆積物で構成されている(田村ほか,1986)。1948年のアイオン台風の豪雨によって発生した土石流は二手に分かれた後に合流して、それによる破壊を免れた森林が細長く中州状に残存した(下の写真の矢印)。アカエゾマツは主にその中州地のなかで発見され、その周辺の土石流跡地を含めた東西200m、南北600mの範囲(標高980〜1,180m)に限られている。
現在では本州できわめて希少なアカエゾマツであるが、今から約2万年前の最終氷期最寒冷期には東北地方で最も優勢な樹種のひとつであり、平野の低湿地を中心に針葉樹林の主役であったと考えられている。約1万年前以降の気候の温暖化・多雪化のなかでアカエゾマツは壊滅的に衰退し、早池峰の小集団を残して消滅してしまった。したがってこの林分は氷期の森を今に伝える遺存林であり、最終氷期以降の樹種の栄枯盛衰の謎を解くカギとなるかけがえのない存在である。また、北海道のアカエゾマツ集団と中部・関東のヤツガタケトウヒ、ヒメバラモミ、イラモミの近縁種集団の中間に位置する早池峰の集団は、バラモミ節の分布地理を考えるうえで重要な存在である。さらに、繁殖個体の数が限られている早池峰のアカエゾマツ集団は、小集団における繁殖様式の解析をするのに適しており、希少集団の保全のための研究の場として最高の条件を備えている。

写真. 中州状に土石流を免れたところ(矢印で示す箇所)にアカエゾマツ集団が残存

衰退は進行しているのか

早池峰のアカエゾマツ集団は、発見当初から個体数が少なく、その存続が危ぶまれてきた。1960年に中州地で確認された胸高直径5cm以上のアカエゾマツは96本のみで、林縁部から枯損が進行し、とくに下流側の部分で著しいことが指摘された。しかしながら、枯損の進行は1970年頃には終息しており、先枯れしたり樹勢が衰えた個体も見うけられるものの、最近の顕著な集団的枯損はないようである。2001年には直径5cm以上のものが中州地で143本確認され、小径木の加入によりむしろ増加した。さらに、土石流跡地では多数のアカエゾマツ若木が更新し、旺盛に成長している。とくに中州の東側の流路に多く、最大直径は20cmに達している。中州地、土石流跡地を合わせたアカエゾマツの本数は、繁殖に関わっている可能性のある胸高直径20cm以上が60本、5〜20cmが202本、0〜5cmのものが約400本である(図)。2007年に胸高以下のものも含めたアカエゾマツ全個体調査を行った結果、約3,500本の個体が確認された。以上のことから、当面は消滅の危機が迫っているという状況ではないように思われる。とくに、1948年土石流跡地に更新した集団は林冠構成種として存続し、少なくともそれが健在な間は繁殖可能個体が一定の集団サイズで維持されることが期待できる

図. 早池峰山のアカエゾマツ集団の個体分布
ただし、アカエゾマツの稚樹は閉鎖林冠下、ギャップともに少なく、アカエゾマツの更新はあまり期待できそうにない。次世代の森林は、小径木の多いコメツガ、さらには閉鎖林冠下でも多数の稚樹を擁するヒバが優勢な森林へと移行していくと推察される。また、小集団で更新が繰り返されることにより遺伝的多様性の低下が進行することも懸念される。核DNAのSSR変異を用いて,土石流を免れた成木集団と土石流跡地に更新した若木集団の遺伝的多様性の量(平均ヘテロ接合度およびallelic richness )を比較すると,成木に対して若木では10数%の減少が検出された(早池峰山の成木集団が北海道の成木集団の平均よりも15%以上低いことも判明した)。また、早池峰山では種子段階での自殖率が非常に高いことが指摘されている(富田ら,未発表)。今後は,こうした繁殖様式を明らかにすることを含め,注意深く見守っていく必要がある。

保全のための課題と対策

本州におけるアカエゾマツの衰退は、氷期から間氷期へと移行する地球環境の変動のなかで生じたものであり、人為の影響は直接的にはほとんどないと考えられる。多くの希少種が人為の影響により衰退しているのとは事情が異なる。今後その悪影響が及ぶのを極力排除しつつ、暖かく見守るのが適正なスタンスであろう。
幸い早池峰のアカエゾマツ隔離小集団は当面は危機的な状況ではないようであるが、長期的には植生遷移の進行により、 やがて衰退していく宿命を抱えている。その遷移のトレンドをリセットし、アカエゾマツ集団の存続を可能にしてきた のは、一定の期間を置いて繰り返し発生した土石流であると考えられる。土石流は個体群に重大な被害をもたらした一方で、更新の機会を与え、多くの後継樹を定着させた。今後の土石流の起き方がアカエゾマツの命運を決めるであろう(起きなければ衰退、起きても親木を直撃すれば壊滅、親木をうまく外れて流れれば存続と推定される)。
現段階での具体的な保全策として次のとおりである。
@集団の存続と遺伝的多様性の追跡調査
繁殖可能サイズのもの60本程度、総個体数約3,500本という個体群サイズが、将来的にも遺伝的多様性を維持し、集団の存続を可能にするものか、今後も注視する必要がある。
A現地外保全の推進
自生地が壊滅する可能性が否定できないため、現地外保全を実施することが必要である。すでに林木遺伝資源保存園(森林総合研究所東北育種場)に32クローンが収集されているが、その系統の維持に加え、追加的収集も望まれる。
<関連文献>
・勝木俊雄・逢沢峰昭・杉田久志・吉丸博志(2008)本州・四国・九州におけるトウヒ属樹木 Pices spp. の分布の現状と保全。生物科学 59(3): 149-156。
・杉田久志(2004)シリーズ限界地めぐり−早池峰産のアカエゾマツ南限隔離遺存集団。森林科学 42: 77-80。