目次
十日町試験地開設100周年を祝って / 森林総合研究所 所長 沢田治雄
日本の積雪研究のはじまり / 元森林総合研究所十日町試験地 遠藤八十一
十日町試験地のあゆみ~雪国の生活から気候変動まで~ / 森林総合研究所十日町試験地 村上茂樹
妻有地域の雪文化はとても興味深い! / 新潟大学名誉教授 和泉 薫
雪かきを交流資源に~越後雪かき道場®~ / 長岡技術科学大学 上村靖司
このwebページでは、2017年9月に森林総合研究所十日町試験地創立100周年記念の公開講演会で配布された
「雪ありて十日町 雪の研究100年 -森林総合研究所十日町試験地創立100周年記念-」の中から、
沢田治雄、遠藤八十一、村上茂樹の講演資料を再掲しております。
全ての講演資料はPDFファイルで公開しております。下記からダウンロードしてお読みいただけます。
なお、執筆者の所属と役職は講演会当時のものです。
十日町試験地開設100周年を祝って
森林総合研究所 所長 沢田治雄
十日町試験地開設100周年を迎えるにあたり,その記念となる公開講演会が開催できますことに,関係各位に対して心から御礼申し上げます.また,この地域の方々の長期にわたる暖かいご支援にあらためて感謝申し上げます.
この試験地開設の背景には日本の水害対策がありました.明治30年(1897年)には,現在の河川事業の根拠となる河川法と,河川への土砂流入防止にかかわる砂防法,それに保安林等公益の確保を目指す森林法(いわゆる治水三法)が制定されていました.しかし明治40年から43年にかけて,毎年全国各地で大水害が発生したため,政府は明治44年に第一期治水事業を開始しました.この事業のもと,河川上流域の観測を充実させるために,農商務省山林局が39か所の森林測候所を設置しました.
これらの森林測候所の業務は,山岳地帯の気象,特に降水量の観測・分析を行い,河川下流域に洪水情報を提供することで,その事務を森林総合研究所の前身である林業試験場が行いました.十日町試験地はこのような背景のもと,大正6年(1917年)に林業試験場十日町森林測候所として開設されました.第一期治水事業の終了で,森林測候所の多くは廃止されましたが,十日町試験地では雪の調査研究も行うようになりました.
そして,平田徳太郎氏や,黒田正夫氏(理化学研究所),高橋喜平氏らの雪に関する研究が行われ,融雪水量を測定する融雪計や積雪の力学特性を測定する機器などが開発されました.とりわけ,鉄筋ならぬ竹筋のコンクリートで作られた地下道から斜面上の積雪の動きを観測できるようにした施設は,積雪の沈降力,融雪量,地温などの測定を可能とし,大きな研究成果を生んできました.そして,これらは雪氷学会設立や雪に関する極めて有意義な様々な活動を可能にしてきました.
現在も,雪崩の発生や流下に関する研究,林内の積雪や樹木の冠雪に関する研究などを行っています.気象データは取りまとめて公表しており,冬季の降水量や気温など長期気象データの解析を行うとともに,大学や研究機関,民間企業との共同研究も積極的に行っています.
本講演会では,日本の積雪研究のはじまりと十日町試験地の歩み,また,雪にかかわる文化と雪を通じた交流をご紹介していただける最適な方々の講演が行われますことを,たいへん喜ばしく思っています.この十日町試験地の意義をさらに共有できることを期待しています.
なお,本年4月から試験地の正式名称は,「国立研究開発法人森林研究・整備機構森林総合研究所十日町試験地」となりましたが,今後とも倍旧のご支援をよろしくお願い申し上げます.
日本の積雪研究のはじまり
遠藤八十一
1.はじめに
森林総合研究所十日町試験地は1917(T6)年3月,林業試験場十日町森林測候所として設立されて以来,今年で100周年を迎えました.職員わずか2~3名の小さな研究機関が今日までの100年,よくも存続できたものと思います.それには,単に気象観測をするだけでなく,豪雪地という十日町の地の利を生かし早くから積雪と森林に関する調査研究に特化し,それぞれの時代の要求に応え努力してきたからに外ならないと思います.何より100年続いてきたことが,それを示しているのではないでしょうか.
ここでは十日町森林測候所が,どのような経緯で積もった雪,積雪に関する研究を始めるようになったのか,当時の全国の森林測候所の責任者であった平田徳太郎(後の日本雪氷協会初代理事長)と山形県新庄町(現市)にできた積雪地域農村経済調査所の初代所長山口弘道との関係,そこから始まった積雪研究の萌芽が,やがて全国的な組織である日本雪氷協会の設立に至る過程についてお話したいと思います.
2.森林測候所時代の十日町試験地
当試験地の前身である森林測候所は,1910年,関東・東北・北陸の各地で発生した大規模洪水の対策として実施された第1期森林治水事業の一環として1917(T6)年に設置された.当初の業務は山岳地の気象,特に降水量の観測・調査で,それらを基に洪水情報を下流に提供することで,全国の主要河川の上・中流域に順次設置され,一時は39か所に上った.しかし,洪水予測の方法が確立されていない時代,期待されたほど成果は上がらず,世評は芳しくなかった.平田徳太郎が森林測候所の責任者になったのはこのようなとき(1920年)で,その数年後には測候所の数は16ヶ所に激減した.平田の仕事は測候所の改革であり,その方向を示すことであった.その方向は,測候所を森林の治水並びに水源涵養機能を研究する試験地に次第に移行していき,第2期事業(1935年予定)では名称も森林治水試験地に改め,測候所の一部を更生・存続させるというものであった.上記の研究に適さない所は,その地に適した降雨降雪現象について研究をすることとなった.十日町の場合は,近くに河川観測に適した国有林がなく適地でなかったが,雪の多いことでは何処の測候所にも負けなかった.そこで,十日町では気象観測の他に,降雪量計の改良や融雪に関する研究(平田,1934)が行われた.しかし,第2期事業に移行した場合,十日町は移転か廃止かで,現在の地に存続できる可能性はないと見なされていた(玉手,1960).平田は上記のような第2期事業の方針を決めた後,1933年8月現職を退いた.そして嘱託として引き続き研究にあたることになった.
嘱託となり気軽な立場になった平田を待っていたかのように,その1か月後,山形県新庄町に農林省更生部の積雪地方農村経済調査所(俗称:雪害調査所,略称:雪調)が設立された.
3.積雪地方農村経済調査所の設立
積雪地方農村経済調査所は,昭和初期の農村恐慌(1930~1931年)によって大きな打撃を受けた東北地方の農村の救済策の1つとして設立された.しかし,北海道や東北地方の農村の貧困の本質は,半年近くも雪に覆われる雪国固有の環境によることに,一早く気付いていた男がいた.山形県選出の衆議院議員松岡俊三であった.雪国では二毛作ができず農業生産性が低いにも関わらず,租税は全国一律である.冬には屋根の雪下しや除雪のために多額の費用と労力を要する.また公共交通の途絶は住民の生命を脅かすと共に,商工業などの発展を阻害してきた.大量の雪は災害(雪害)であると捉え,1926年より雪国の実態を調査しながら,雪国救済を訴え続けた.1932年,松岡は雪国35万人の署名を携え,「雪国日本の根本対策に関する建議案」を国会に提出,雪国救済の施策を訴えた.建議案は起立多数で可決されたが,立法化には至らなかった(佐藤,2001).
しかし,政府としても危機的な状況に陥った東北の農村を放っておくわけにもいかず,1933(S8)年,農林省更生部の積雪地方農村経済調査所(以後雪調と呼ぶ)を山形県新庄町に設置した.形式はともあれ,これは雪国救済運動の盛り上がりを受けて実現したものであり,この地に設置されたのである.雪調の目的は,疲弊しきった雪国の農村経済をどのようにしたら農民の手によって自力更生し,農村振興ができるかを研究し,指導することである.主な業務は最初,1)雪国の農村の経済を調べ,改善策を研究する農村経済系,2)冬の副業や出稼ぎの実態を調査し,新しい副業を開発・指導する農村工業系の2つであったが,後に3)積雪に関する調査研究が加わった.初代所長は山口弘道であった.
4.十日町試験地における積雪研究の始まり
雪調の山口所長(1960)によると「私が就任して間もなく,平田博士が訪ねて来られました.そしてこの新しい役所の仕事として,雪の(科学的な)研究がきわめて必要であることを力説せられた.私は雪国の実情に疎く,説明を伺っても,よく納得ができませんでした.」と記している.これが山口と平田の最初の出会いである.平田は,雪国の人々の暮らしを良くするためには積雪の科学的研究が不可欠で,雪調が中心になって積雪の研究を促進してほしい.森林測候所でも最大限の応援をする.そういう思いであったろうと推察される.それに対し山口は,積雪の研究は雪調の基礎となるものであるが,雪調は名のとおり雪国の農村の経済状況を調査し,農民を救済するところであり,理工学的な積雪の研究に直接携わる予算も人材も持っていない,必要があれば委託研究で補えば良いと考えていたのではないだろうか.事実その年の暮に平田に研究を委託している.
委託を受けた平田は,まず肉眼で見て積雪がどのように分類できるか,またそれがどのように変化するかを知りたいと考えた.そして1933-1934年冬より十日町を含む雪国の7つの森林測候所に積雪の断面観測を依頼した.これが森林測候所における積雪研究の始まりである.しかし,いまだ雪質を表す適当な言葉がない時代,Aの観察した雪がBの見た雪の何れに相当するか,その判別が困難であった.このため,Paulcke等(平田,1940)の用いた名称を参考に仮の名を付け,1935-1936年冬から角館森林測候所の吉田重助,1936-1937年冬からは十日町の勝谷稔の協力を得て断面観測を行い,自身も観測に参加した.なお,初期の積雪名称には「白砂糖」や「塩」などの名も用いられた.また積雪の層構造を鮮明にするためのインク散布法は吉田重助の発案であると「雪質に関する研究」(平田,1940)に記載されている.

こうして始まった積雪断面観測であったが,その冬の観測が終わりに近づいた1934年4月,十日町森林測候所はストーブの灰の不始末により出火,庁舎を全焼する.前に述べたように翌年度から始まる第2期事業では「森林治水試験地」に改変する予定であり,さっそく移転話が持ち上がった.しかし簡単には見つからず,とりあえずは仮事務所で一冬を過ごすことになる.ところが第2期事業の予算が通りそうにもなくなり,事業を1年延ばすことになった.そうなると更に1年,研究の空白ができるため,十日町を治水試験地として“現地に存続させる腹を決め”,第1期事業の災害復旧予算として再建を申請した.この予算が通り,1935年,否応なしに現地で復旧しなければならないことになり,元庁舎のあった東隣り(現在の場所)に新しい庁舎を再建することにした.こうして新築された十日町は廃止の対象からはずされ,翌1936年に“治水試験を行わない”十日町森林治水試験地が誕生することになったのである(玉手,1960).
再建された十日町試験地では,平田の指導の下,勝谷が中心になって,1936-1937年冬から前記の雪質の研究が再開された.また1935-1936年冬からは測器の試作・改良を行われ,積雪の密度,硬度,抗張力,抗剪力の測定(勝谷,1940)や積雪の含水率の測定(平田ら,1940),1937-1938年冬には積雪に埋れた鉄棒の曲がりに関する実験(平田,1940)など積雪の性質に関する研究が始められた.これらは主に雪調の委託研究費によって行われた.
一方,1937年度からは第2期事業に雪崩対策試験に関する経費が計上されたのを受けて,庁舎の北にある下り斜面において積雪の動きや雪崩の発生過程,雪崩防止等に関する研究をするため,地下道が造られた.地下道は,庁舎の下に既にあった地下室(地温や融雪量測定用)を起点に,斜面まで延び,そこで斜面に沿って左右に枝分かれするT字型の構造(全長50m)で,斜面に沿う地下道の3か所に積雪の動きを自動記録する装置が設置された.雪が積もる前に,斜面に置かれた杉材(太さ5cm,長さ30cm)と地下室の自記円筒時計のペンとをワイヤーロープで繋いでおくと,積雪の動きにつれて杉材が移動し,その移動量が記録できる仕組み(図2,図3参照)である.そして1937-1938年冬には斜面積雪の動きを自記記録することに成功した(世界で初めてかも?).当時この試験地に勤めていた根津誠一(根津ら,1988)は「それ以来,存在すら知られなかったこの試験地が,一躍有名になるのです」と語っている.次年度からは斜面を整地し,雪崩防止杭の効果試験や杭にかかる荷重測定などが行われた(勝谷,1943).今はもうないが,地下道の途中から枝分かれした先に露天掘りの一角を設け,その中央に,周りの壁とは間隔を空けて恒温室が造られた.雪が積もると,この部屋の周りや屋根が雪で覆われて0℃に近い恒温室になる仕掛けである.この部屋は積雪の力学的な試験などに使用された.なお,この地下道はコンクリート製であるが,その中には竹が入っており,竹筋コンクリートである(1938年12月全て完成).


このように十日町試験地は,火災という偶然によって移転や廃止を免れ,現地に復旧再建され,それ以降,積雪や雪崩の研究を行う試験地として,精力的に研究に取り組んでいったのである.なお,“現地に存続させる腹を決める”にあたっては,「十日町試験地を積雪の研究施設にしたい」という平田の強い思いによって決定されたものと推察される.そして,この時すでに地下道を造るという腹案を持っていたのかもしれない.再建が決まると平田はすぐに庁舎の建設位置の選定に,十日町に出張している.
5.「積雪研究会」と「雪の会」の誕生とその活動
1933年に新しく設置された雪調では,まず雪国の小学校教員などの協力を得て積雪深や消雪日などの基礎データの収集に取りかかった.この事業は1934年から1958年まで続いた.山口所長はまた東畑精一(東京大学農業経済学)や今和次郎(早稲田大学建築学)らと山形県鮭川村に入り,農村の経済状況や家屋の状態について調査し,雪国の生活の改善策などを検討していた.
しかし,積雪についての科学的な知識や,それを応用した技術なしには,雪国の問題解決は難しいと山口は思うようになってきた.平田との初対面の時に納得できなかった山口(1960)も「新庄に居住し雪国の実態に触れるに従って,だんだん了解できるようになり,老齢にも拘わらず,度々足を運ばれて,私を説納される(平田さんの)熱意に動かされ,この問題を真剣に考えるようになりました.そしてついに,雪国の振興策を立てるには,雪の科学的性質を知り究めなければ解決は困難であるという結論に達した」と記している.この当時積雪の科学的研究は,我が国をはじめ世界でもほとんど成されておらず,雪に関する科学的データを知ろうと思ってもほとんど得られない状態であったのである.
雪の研究を雪調に採り入れる決心をした山口は,積雪の科学的な研究の進め方について相談するため,1936年7月,東京の学士会館に平田徳太郎(農林省林業試験場),黒田正夫(理化学研究所),中野治房(東京大学植物学),福井英一郎(東京高等師範学校),今村学郎(東京文理科大学地理学)の5人の研究者と会合を持った.同じメンバーによる会合は同年9月にも実施され,「積雪研究会」を組織することになる.そして次に示すように研究部門毎に委員を定め,その委員の責任の下で他の研究者の研究事項を統括し研究することにした.
- 物理学: 平田徳太郎,中谷宇吉郎(北海道大学理学),黒田正夫,
- 建築学: 今和次郎,
- 植物学: 中野治房,
- 作物学: 浅見與七(東京大学農学),
- 地理学: 今村学郎,福井英一郎
また,雪に関する内外の文献の抄録を各自分担して作成することにした.そして文献抄録の収集と打合せの会を「雪の会」と称して,毎月1回東京で「雪の会」を開くことにした(山口,1938).
このような組織について山口(1950)は次のように記している.「(平田)先生は,雪の研究を進捗させるためには,この方面の権威者及びこれに関係のある科学者にできるだけ参画してもらって,共同で研究を進める必要があるとして,自ら各方面の科学者に紹介・交渉の労をとられ,有力な科学者が雪調のブレーンとして整備されるに至りました.このことは,雪調の仕事を社会的にまた学問的に価値あるものとすることに大いに役立った」としている.ただし,平田の勧誘によって委員なったのは黒田正夫だけで(黒田,1950),中谷宇吉郎は黒田の誘いによるようである(小島,1992).他の委員は誰によるものか定かではない.
最初の「雪の会」は1936年10月に行われ,11月の第2回例会では,文献抄録の打合せだけでなく,広く雪の研究に関する打合せ会とし,委員以外の一般の研究者にも参加を求めることになった(山口,1938).こうして「雪の会」は次第に研究発表や意見交換の場として機能するようになっていった.
「雪の会」では例会の他に,雪害の実態を共有するために地方の視察にも出かけた.第1回の視察は1937年1月で山形,秋田両県へ,第2回は同年2月,福島,新潟両県に出かけている.これらの旅行で参加者を最も驚かせたのは,積雪中に埋まった体操用の鉄棒の曲がりである.実験によりそれを確かめるまでは半信半疑であったと山口(1953)は語っている.これが積雪研究の発展の端緒をつくったとも言っている.しかし,この問題を取扱うためには,その前に「積雪の分類とその名称」の統一が急務と言うことになった.
もう1つは新潟県南魚沼郡大崎村,滝沢素朗校長宅の急勾配自然落雪式家屋との出会いである.これは今和次郎が雪調の委託研究「農家家屋に関する研究」において提案した,雪国のモデル住宅とほぼ同じものであった(林ら,2001).これに勇気づけられた今は,第6回,第7回例会で,自身のモデル住宅を基に雪調の敷地内に実験農家を建てるための提案を行った.実際に農家家族(夫婦と子供3人)に住んでもらい農業経営を行うかたわら,その効果を調査するという実験である.実験家屋は,屋根勾配50度の自然落雪式の木造3階建てで,落下した屋根雪の除雪を軽減するため2階にも出入口を設けた.室内の配置は1階の付属屋部分に厩舎,母屋部分に作業場,風呂など,2階の付属屋に作業場,母屋に居室と寝室,3階は納戸,物置で,冬の作業空間を確保し,採光と排気,断熱を考えて造られた.このため除雪作業が軽減され,その分副業に従事できたため,収入が増え1年で黒字となった.しかし,この農家の主婦が大病を患い実験は数年で終わった.大病は年間三百数拾日という超過重労働によるものと見なされた(山口,1953).
「積雪の分類とその名称に関する協議」は数回の打合せ会の後,1937年5月の第8回例会において行われた.協議の基になった素案は,黒田正夫,吉田重助,高橋喜平(青森営林局川尻営林署)などの案であることが,残された素案とハガキなどの筆跡から判断できると小島(1992)は書いている.これらの素案を基に協議した結果,「積雪の分類とその名称に関する雪調案」が仮決定された.この案を雪と関係のある機関および研究者などに送付し,意見を取りまとめた後,1937年12月大蔵省中央会議室において,「積雪の分類に関する協議会」が開催された.参加者は,積雪地域の大学や気象台,鉄道省,農林省,逓信省などの官庁,さらに陸軍,海軍の関係者ら計64名で,多少の修正の後,積雪の分類名称(雪調案)は表1のように決定された(平田,1940;小島,1992;杉山,2015).
表1 積雪の分類名称 (雪調案 1937年12月) | |
大分類 | 小分類 |
カワキユキ(乾雪) | ハイユキ(灰雪) |
コナユキ(粉雪) | |
ワタユキ(綿雪) | |
タマユキ(玉雪) | |
ヌレユキ(濡雪) | モチユキ(餅雪) |
ベタユキ(潤雪) | |
ミズユキ(水雪) | |
シマリユキ(締雪) | コシマリユキ(小締雪) |
カタシマリユキ(硬締雪) | |
ヌレシマリユキ(濡締雪) | ベタシマリユキ(潤締雪) |
ミズシマリユキ(水締雪) | |
ザラメユキ(粗目雪) | コザラメユキ(小粗目雪) |
オホザラメユキ(大粗目雪) | |
コオリユキ(凍雪) | コゴオリユキ(小凍雪) |
カタコホリユキ(硬凍雪) | |
ヒョウバン(氷板) |
また,雪調の山口所長の念願であった「積雪研究室」の設置に関する予算の交付が決定し,1937年4月の第7回例会で雪調研究室の設計に関する打合せが行われた.研究員には1937年6月に工藤清(黒田の推薦)が,1938年4月に高橋(旧姓尾田)敏男(中谷の推薦)が採用され,助手には小島忠三郎が農村工業系から異動した(高橋ら,1988;小島,1992).1938年春,宿望の積雪研究室が完成し,雪調における積雪の研究が始まることになる.
6.雪の会から日本雪氷協会へ
雪調の「積雪の分類名称」が決まった頃から「雪の会」をもっと広く有力な機関にしたいという話が始まり,1938年9月に「雪の会設立趣意書」が発送され,全国の関係者にその設立を呼びかけた(杉山,2015).ところが,設立されるはずの「雪の会」がいつの間にか「日本雪氷協会」に名前を変え(小島,1992),1939(S14)年3月に日本雪氷協会が設立されたのである.初代の理事長は平田徳太郎,理事には黒田,中谷,今,山口など積雪研究会の委員の他,畠山久尚(中央気象台),今西錦司(京都大学理学部)や樺山喜造(海軍航空廠科学部)など14名が就任した.なお,雪の会が雪氷協会になった経緯について,山口(1939)は,「2~3年前より「雪の会」を作り準備してきたが,今般支那事変(1937年)が勃発し,ここに大同団結し名も日本雪氷協会として,雪害に限らず広く寒冷凍結を包括することとし,本日発起人会開催の運びになった」と書いている.事務局は理化学研究所に置かれた.
日本雪氷協会は同年4月より機関紙「日本雪氷協会月報」を発行し,1941年からは「雪氷」に名を変えて,太平洋戦争の最中も刊行され続けた.戦後,東京で紙の調達が難しくなった時には,国鉄(現JR)の古川巌の尽力により新潟で編集,印刷された(丸山ら,1988).また,資金不足で刊行が困難になった時には,日本積雪連合の「雪と生活」の巻末に雪氷論文の掲載をお願いし,その別刷りを合本して「雪氷」14~16号は作られた(古川 巌,1967;四手井綱英,1967).この他,論文集としては,日本雪氷協会論文集 1(1940),雪氷10年(1949),雪氷の研究 1(1953),雪氷の研究 2(1955)を出版している.
このように戦中・戦後の苦難の時代を乗り越えようとしていた時,全国組織である雪氷協会には,多くの若い研究者が各地に誕生していた.雪氷の研究はにわかに活発になり,研究のレベルも学術的研究団体と言えるようなっていた.そこで日本雪氷協会を解散し,1955年8月に日本雪氷学会を設立した.
7.おわりに
初代雪氷協会理事長の平田は,林業試験場の嘱託から名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)校長(1939年9月~1945年11月)に就任した.その間「雪氷」に「積雪の科学的研究」を10回にわたり寄稿し,後に単行本「積雪の科学」(平田,1948)を刊行した.戦後の十日町試験地は,後に「雪崩の18°法則」で有名になる高橋喜平を中心に雪崩に関する研究に精力的に取組み,現在に至っている.一方,雪調の山口所長は終戦直前の1945年に退職し,東京近郊で瑞穂農場を経営している.雪調はその後1948年に農業総合研究所積雪地方支所となったが,その積雪研究室は戦時応召などで1943年より無人となり,1949年1月に理化学研究所の大沼匡之が転入するまで続いた.大沼は山地積雪の研究に意欲的に取組んだが,1960年に北陸農業試験場に移ることになり,雪調から続く積雪研究室は幕を閉じることになった(大沼ら,1988;高橋ら,1988).
しかし,積雪研究のために山口が組織した「雪の会」の成果,例えば,積雪の分類,雪国の実験家屋の建設,積雪の力学的試験などは我が国の積雪研究の基礎を築くものであり高く評価されている(林ら,2001).また「雪の会」は雪氷に関する研究者の全国組織である日本雪氷協会に発展,今日の日本雪氷学会の母体となったことは,我々にとって掛け替えのない偉大な功績である(杉山,2015).日本雪氷学会,ひいては日本雪工学会のルーツは,雪調の「雪の会」であることをお話させていただきました.ありがとうございました.
文献
- 古川 巌,1967:故中川光男氏の略歴・業績など.雪氷,29(1),1.
- 林知子ら,2001:今和次郎の農村生活・生活改善と東北農山漁村住宅改善調査.住総研研究年報,No.28,107-118.
- 平田徳太郎,1934:越後十日町における融雪水量観測の成績.森林治水試験彙報,14,135-162.
- 平田徳太郎,1940:雪質に関する研究.日本雪氷協会論文集1,21-43.
- 平田徳太郎,1948:積雪の科学.地人書館,210pp.
- 勝谷 稔,1940:積雪の密度,硬度,抗張力及抗剪力測定成績.日本雪氷協会論文集,1,44-66.
- 勝谷 稔,1943:山腹積雪の移動に就いて.森林治水試験彙報,19,117-144.
- 小島忠三郎,1992:雪氷協会の誕生まで.雪氷,54(1),77-79.
- 黒田正夫,1950:平田徳太郎先生の古稀祝を迎えて.雪氷,12(2),221-223.
- 丸山久一ら,1988:「雪氷協会いまはむかし」第4回新潟の鉄道と雪氷協会.雪氷,50(4),240-242.
- 村上茂樹,2017:十日町試験地 創立百周年と雪の研究.季刊森林総研,36,14-17.
- 根津誠一ら,1988:「雪氷協会いまはむかし」第2回平田徳太郎と林試十日町試験地.雪氷,50(2),117-119.
- 大沼匡之ら,1988:「雪氷協会いまはむかし」第1回黒田正夫と学会.雪氷,50(1),42-44.
- 佐藤国雄,2001:雪国大全.恒文社,398pp.
- 四手井綱英,1967:中川さんの思い出.雪氷,29(1),1-2.
- 杉山滋郎,2015:雪氷学者・中谷宇吉郎の研究を歴史的・社会的な文脈に位置づけるための調査研究.科学研究費研究成果報告書,基盤研究(C)研究課題番号:25350375,55pp.
- 高橋敏男ら,1988:「雪氷協会いまはむかし」第3回積雪地方農村経済調査所と雪の研究.雪氷,50(3),171-173.
- 玉手三棄寿,1960:焼けた十日町森林測候所の復旧経過.第1期治水事業の森林測候所,林野共済会,113-116.
- 山口弘道,1938:積雪に関する調査研究過程.第2回雪害に関する打合会復命書,農林省山林局,32-47.
- 山口弘道,1939:創立世話人総代挨拶.日本雪氷協会月報,1(1),12.
- 山口弘道,1950:雪調の想い出.雪氷,12(2),223-224.
- 山口弘道,1953:雪と生活.農林大臣官房総合開発課編,93pp.
- 山口弘道,1960:平田先生.雪氷,22(5),166-167.
十日町試験地のあゆみ~雪国の生活から気候変動まで~
村上茂樹
1. 100年の業務の変遷 序文にかえて
十日町試験地に期待されてきた業務内容は,時代の変化に伴って100 年間に大きく変化してきました.この変化に組織の改名が伴っていることもありました. ここでは十日町試験地100年の歴史を,測候所時代,試験場時代,研究所時代の3つに分類し,2章以降の理解を深める手助けとしてそれぞれの時代背景を説明します.
十日町試験地は林業試験場十日町森林測候所として1917年(大正6年)に設立されました. 全国に展開された森林測候所の目的は,気象観測を行って洪水予報を出すことでした(沢田治雄氏の序文,遠藤八十一氏の講演要旨を参照). しかし,森林測候所は期待されたほどの成果を上げられず,次第に数を減らしていきました. この頃,森林測候所の改革を任務としていた平田徳太郎氏(遠藤八十一氏の講演要旨を参照)は,その後の組織の目指すべき方向性を意識し, 各森林測候所に気象観測の他にも地域性を生かした試験研究を行うように指導しました. すなわち,十日町では雪質,融雪量,絹布の性質と空気湿度との関係などの研究も行われたのです(農林省林業試験場,1960). 1936年(昭和11年),森林測候所は廃止され,森林治水試験地と改名して山地崩壊,水源涵養保安林,雪崩などに関する試験を主な業務として行うことになりました. ここまでを「測候所時代」と呼ぶことにします(図1).

十日町森林治水試験地と改名した十日町試験地は,雪国の大きな社会問題である雪崩の対策を中心とした試験研究を行うようになりました. この流れは現在まで引き継がれていますが,当時は社会的問題についての試験研究を行って,成果を直接行政に返して反映させることが要求されていました. 十日町試験地の母体であった林業試験場も同様の使命を帯びていたことから,この時期を「試験場時代」と呼ぶことにします.
その後,1988年(昭和63年)に林業試験場は森林総合研究所と改名します. これは社会の林業試験場に対する要求が林業のみに留まらず,環境を含む森林全般へと変化したためです(独立行政法人森林総合研究所,2005). しかし,この名称変更に伴って,実際の業務内容が急に大きく変化した訳ではありませんでした. それ以上に大きな変化は,森林総合研究所が2001年(平成13年)に農林水産省から分離して独立行政法人となった際に起こりました. すなわち,法人となった森林総合研究所に期待される主な成果は,測候所時代や試験場時代のような技術・実務の直接的な社会への還元ではなく,知的資源である論文を生産することとなったのです. この独立行政法人化以降の時代を「研究所時代」と呼ぶことにします.
近年,論文重視の傾向はますます強くなっており,これが研究所や大学,あるいは研究者個人を評価する際の世界標準となっています. しかし,どれほど多くの論文を生産しても,それが社会の役立たなければ意味がありません. そこで,より多くの組織やその組織の人たちと交流することで,知的資源(論文)を社会に還元することも重要になっています. このように,十日町試験地に期待されてきた業務・成果の内容は100年間に大きく変化してきました. 十日町試験地では数多くの雪に関する試験研究が行われてきましたが,その中でも雪崩の研究は大きな部分を占めてきました. 以下では先ず,試験場時代の主な雪崩の研究について述べます(2章~3章). 次に,「4. 雪国生活との関わり」,「5. 研究所時代の主な成果」について述べ,最後に「6. 観測ありて 雪の研究100年」で総括し,今後の方向性を述べます.
2. 雪崩の研究
2.1 実験斜面での雪崩研究
日本の雪崩研究は十日町試験地の実験斜面から始まったと言っても過言ではないでしょう. 実験斜面での研究はその後の雪崩対策研究の基礎となり,後述のようにさまざまな試験研究が続けられてきました.
戦前の日本の雪崩対策施設は,スイスやオーストリアのものを参考に作られていたと考えられますが,詳しい記録は残されていません(中俣,1987). 日本では,東北南部から南の地域を中心に湿った重い雪が降ります.このため,ヨーロッパで使われている雪崩対策施設では強度が不足するなどの問題があり,日本独自の設計基準を作る必要がありました. このため,戦後の混乱が収まった1956年(昭和31年)から1971年(昭和46年)までの間, 十日町試験地の実験斜面では国鉄(現在のJR)と共同でさまざまな雪崩対策の試験研究が行われました(写真1;中俣,1987). その後,この結果を基に鉄道や道路の法面に雪崩予防施設が設置され,効果を上げるようになりました.

ところが,1974年(昭和49年),1981年(昭和56年)など大雪の年には多くの雪崩防止施設が雪の重みなどで破損してしまいました(石川ら,1978;石川ら,1979;中俣,1987). そこで実験斜面ではさらに詳しい実験が続けられ(写真2),雪崩防止施設に改良が加えられました. このように十日町試験地の実験斜面は,現在日本に設置されている雪崩対策施設の基本設計に大きく貢献してきました.

2.2 高橋の18度法則
斜面に雪が積もると雪崩が発生する危険性があります.十日町試験地主任(現在の試験地長)であった高橋喜平氏は,数多くの表層雪崩を観測しました. 表層雪崩とは,積雪の表面からある深さ(ただし地面には達しない深さ)までの積雪層が雪崩落ちるタイプの雪崩です. その結果,自分の居る位置から雪崩の発生区までを見通す仰角が18度以下であれば雪崩が到達しないという経験則を見いだしました(高橋,1960). これは高橋の18度法則と呼ばれています(ただし,少数の例外が知られています). この法則はノルウェーでも成り立つことが確認されています(Lied and Bakkehøi, 1980).
2.3 強い降雪による雪崩の発生
表層雪崩は弱層と呼ばれる積雪内部の弱い層が原因となって,それよりも上層の積雪が雪崩れ落ちることで発生します. しかし,弱層がなくても発生する表層雪崩の存在が明らかになりました. すなわち,強い降雪が続くと斜面の積雪が安定化する前に雪が自重に耐えきれずに発生するタイプの表層雪崩です(遠藤,1993). このタイプの雪崩は,雪崩発生危険度の計算にも組み込まれ,広く使われています.
3. ブナ林伐採による雪崩と雪食
1960年代,木材価格が高騰し,国有林(農林省林野庁)はもっと森林の伐採量を増やせという世論が高まっていました(大田,2015). 伐採は奥地へと進み,これまで誰も手を付けなかった豪雪地の急傾斜地にあるブナ林にまで大面積皆伐が入りました. 当初は,伐採の後に残された切り株(伐根)が雪崩を抑制することから(佐伯ら,1981),伐採跡地にスギを植栽し,それが成長すれば何の問題も起きないと考えられていました. ところが,伐採から9年目以降,スギ林が植えられた伐採跡地の急傾斜地で全層雪崩が多発し,地表面が削られて浸食が進みました(写真3~5). 全層雪崩とは地表面よりも上にある積雪が全部雪崩れ落ちるタイプの雪崩です. その原因を8冬期に渡って調査した結果,伐採後8年目から伐根が腐朽して脱落が始まること,これによって伐根の雪崩抑制機能がなくなること, 脱落した伐根が積雪とともに斜面に沿って移動して筋状に浸食が進むことが明らかになりました(佐伯ら,1981;図2). これを雪食(せっしょく)と呼びます. 雪食を止めるには,斜面を階段状に削る階段工という工事を行う以外,有効な方法はありません(写真6). 皆伐ではなく択抜(抜き切り)を行うと,全層雪崩の発生は見られなかったことから,豪雪急傾斜地では皆伐は行わず択抜を行うべきであるとの結論が得られました.
![]()
写真3 十日町市内の小松原国有林でブナ林が皆伐され,伐採跡地にスギが植栽されました (昭和50年10月14日撮影).
|
![]()
写真4 写真3の9年後,急傾斜地で雪食が発生していることが分かります (昭和59年9月28日撮影).
|
![]()
写真5 皆伐・植栽地の雪崩調査.雪崩で流下・堆積した雪には土が混じって汚れていることが分かります (昭和59年撮影).
|
![]()
写真6 階段工が施工され,雪食が止まりました (昭和62年6月17日撮影).
|

4.雪国生活との関わり
4.1 十日町雪まつりと雪の家

の官舎 (高橋,1979).
1947年(昭和22年),高橋喜平氏は昭和天皇に御前講義をされました. 陛下が「何か雪国の明るい話はないか」とご質問された際,あまり良い回答できなかったことから,高橋氏は雪国を明るくする運動に取り組むようになりました. その後,高橋氏は「雪まつり」を考案し,自らが会長を務めていた十日町文化協会からの発案という形で1950年(昭和25年)に第1回「十日町雪まつり」が開催されました(高橋,1953). 十日町は雪まつり発祥の地となり,多くの人が雪を楽しむようになったのです. 高橋氏が十日町に着任したのは1944年(昭和19年)の4月でした. 高橋氏にとって十日町での初めての冬は,奇しくも100年間でいちばんの大雪の年となりました. 写真7は,1945年(昭和20年)1月に高橋氏が居住していた十日町試験地の官舎を高橋氏自身が撮影したものです. この写真は御前講義の際に陛下がご覧になったのですが,陛下はこの写真に何が写っているのかがお分かりにならかなったそうです. 同席の方が「陛下の御覧になっております写真は高橋所長の官舎でありまして, この下に家ありという古事そのままの雪の風景であります」と説明すると,陛下は驚かれたといいます(高橋,1979). 高橋氏は陛下も驚かれた住宅環境を改善すべく雪の家を設計し,自らの官舎としました(写真8). 高床式で1階が物置,2階,3階が居住空間のため,室内が雪に埋もれず明るい場所で生活できます (高橋,1974). これは実験農家(遠藤八十一氏の講演要旨参照)を参考にしたもので,屋根は自然落雪式となっています. 最大の特徴は最上部に落雪しやすいように鋭角の雪割りが取り付けられていることで,これは高橋氏独自の考案によるものです. このような形の家は今では市内各所で見られますが,当時としては雪下ろし不要で室内が明るい画期的なものだったのです.

高床式で自然落雪のため雪下ろしの手間が省け,2階,3階の室内は雪に埋もれずに明るく暮らせます. 屋根の最上部の雪割りは高橋氏の考案によるものです (平成12年頃撮影).
4.2 防雪シート
十日町試験地で気温や降水量を測定している場所は実験斜面の上にあります. 実験斜面からは雪が吹き上げてくるので,防風・防雪のために柱を設置し,それに葦簀(よしず)を取り付けていました(写真1の中央奥). ところが時代とともに葦簀が入手できなくなり,代わりに農業資材の寒冷紗(かんれいしゃ)を使用した時期がありました. しかし,寒冷紗は水を吸収して雪が付着するので,1986年(昭和61年)に市内の業者さんに相談して樹脂製のネットを作ってもらうことになりました. これに改良が加えられ,雪国で広く使われているのが防雪シート,雪がコネット®です(写真9). 冬には市内の住宅や公共施設など各所で目にすることができます(十日町商工会議所,2011).

この写真では,住宅の玄関先とベランダに使われています. 十日町試験地からの相談がこの製品を開発するきっかけとなりました (写真提供:有限会社 井筒屋商店).
5. 研究所時代の主な成果
5.1 積雪のせん断強度
近年,気象データを使って計算で雪崩の発生危険度を予測する方法が発達してきましたが(平島,2014), 海外で開発されたこの方法を日本で適用するには雪質の違いを考慮してせん断強度のデータを追加する必要がありました. せん断とは,紙をハサミで切るときのように物にずれる力を加えることです. 積雪に加えるせん断力を強めていくと,やがて積雪が壊れます. この積雪が壊れる時のせん断力を積雪のせん断強度と呼びます. 十日町試験地では,さまざまな種類の積雪のせん断強度を測定して密度との関係を数式で表しました(写真10,山野井・遠藤,2002). その特徴のひとつは,日本の雪質に合うように湿った雪のせん断強度も表現していることです. この式を使うことで,計算による雪崩の予測精度が向上しました. また,比較的簡単に測定が可能な積雪の硬さから積雪のせん断強度を推定する式も作られ(山野井ら,2004),雪崩調査の現場で使われています.

5.2 妙高山域における雪崩の観測
新潟県南西部の長野県境近くに位置する妙高山(2454m)周辺は,豪雪地として知られています. この山域にある幕ノ沢では,平均すると2~3年に一度の頻度で大規模な雪崩が発生しています. 幕ノ沢は妙高山の北東3kmにある神奈山山頂(1909m)の南側を源流として東へと流下しており,源頭部は標高1740m,斜度35~40度で, 積雪が多いことに加えて上流部ほど傾斜が急なために表層雪崩が発生しやすいのです. 幕ノ沢では2000年以降,雪崩のモニタリング観測を行っており,地震計,雪崩発生検知システム,ビデオカメラ等が設置されています. このような観測の継続によって,2017年冬期までに流下距離が2000mを超える大規模な雪崩が7件観測されましたが,その中でも2008年の表層雪崩は国内屈指のものでした. この雪崩の一部はスギ林に流れ込んで多くのスギ立木が倒壊したため,現地調査を行いました(竹内,2013;写真11). 幹の折れ方から流下速度を逆算したところ,雪崩がスギ林の林縁から130mの位置で停止したことを再現できました. 次にスギ林がないと仮定して流下速度を計算すると,スギ林がある場合よりも200m遠くまで到達し,スギ林は雪崩をかなり減勢することが示されました(竹内ら,2012). これまで森林が雪崩を減勢することは経験的には知られていましたが,そのことが現地観測によって科学的に示されました.

5.3 長期気象観測にもとづく降積雪変動の研究
温暖化のような気候変動に伴う降雪量の変化は雪国の社会にとって大きな関心事であり,積雪地域の環境や水資源を考える上でも重要です. このような問題を明らかにするためには,長期間に渡って同じ場所で観測されたデータが必要不可欠であり,十日町試験地では,長年の気象や降積雪の観測データを活かした研究も行なってきました. 本州日本海側の多雪地域では,近年の暖冬傾向に伴って積雪深が減少していることが報告されていますが,その要因として気温の上昇により,雪ではなく雨が降る機会が増えたことがあげられています. しかしそれだけではなく,十日町市を含む新潟県中越地方~北陸地方では,冬期の降水量(雨と雪の合計)と気温の間に高い負の相関があり(すなわち,気温が高いほど冬期の降水量が減る傾向が強い), 温暖な冬は降水量そのものが大幅に減少することがわかりました(Takeuchi et al, 2008). これらの地域では,冬型気圧配置となって北西季節風が強まったときに気温が低下し,大雪が降るためで,冬期の風向と降水量や気温との関係を調べた結果からそのことが裏付けられました(図3). つまり,新潟県中越地方~北陸地方の冬の降水量は,季節風の頻度や大陸の寒気の強さの影響を強く受けて変動することが示唆されました. また,将来,暖冬化が進んだ場合には雪だけでなく降水量が減少し,水資源減少への影響が大きいことも懸念されます.

5.4 積雪地の水源林
積雪地の水源林管理についての研究は,これまでほとんどありませんでした. 積雪地の水源林に求められる機能は,なるべく多くの積雪を貯えることと,なるべくゆっくりと融雪が進行することです. 遅くまで雪が融け残ると,融雪水を水資源として使える期間が長くなって好都合なのです. 図4上のように,密な林では樹冠(枝葉の部分)に多くの雪が積もって蒸発も多くなるため,疎な林の方が多くの積雪を貯えることができます. ところが,図4下のように,密な林では日射と風速が樹冠によって弱められるため,疎な林よりもゆっくりと融雪が進みます. つまり,水源林としての森林の疎密の程度が最適となる林があるはずです. そこで3種類のスギ林で積もる雪の量と融雪の進み方を調べてみました(村上ら,2015). 図5のスギ林A,B,Cはこの順に疎から密な森林になっています. 融雪が盛んになる前の3月9日には裸地,スギ林A,B,Cの順に次第に雪の量が少なくなっており,図4上から予想される通りの結果です. 融雪が盛んな4月12日には,雪が少ない順に,裸地,スギ林C,A,Bとなり,その後,この順に雪が消えました. つまり,疎密度が中程度のスギ林Bが水源林として最適であることが分かりました. この順序はその年の雪の量によっても変わると考えられ,今後さらに研究を続ける必要があります.


融雪が盛んになる前(黒)と融雪が盛んな時期(灰色).図中の数字は,雪を融かして水にした時の深さ(mm)です(村上ら,2015).
5.5 積もる雪による森林被害
樹木に大量の雪が積もると,折れや曲がりの被害が発生することがあります. これを冠雪害と呼びます.1975年(昭和50年代)頃までは冠雪害と気象条件の関係についての研究が行われていましたが,その後は中断していました. 近年,雪が少ない地方に思いがけない大雪が降ることが多くなり,冠雪害が再び注目されるようになりました. 昭和時代の冠雪害の研究では,写真撮影は徹夜の作業で,気象などのデータは紙に記録されたものを手作業で1時間毎に読み取るのがやっとでした. 数年前から再開された冠雪害の研究では写真撮影も測定データの記録も自動化され,気象データから冠雪量を予測することにも成功しました(勝島ら,2017;写真12). 今後,さらに観測を続け,予測精度を向上させることを目指しています.

関東のスギ(左)と十日町のスギ(右)を比較しています(平成29年1月13日撮影).
6. 観測ありて 雪の研究100年
6.1 降積雪・気象の観測と共同研究
十日町試験地では降積雪・気象の観測を1917年(大正6年)から継続しています. また,積雪表面から地面までの雪質,密度,硬さなどの測定を行う積雪断面観測は1939~1940年(昭和14~15年)冬期から継続しています(写真13). このような積雪の詳細な観測を長期間継続して行っている例は他になく,これらのデータは貴重な知的資源となっています. 積雪が多く,かつ雪に関する多様な観測を継続して行っていることから, 十日町試験地では,最近の10年間だけでも10を超える民間企業,研究所,大学,政府機関,各種団体などからお声がけをいただき,共同研究を行ってきました. 今後も観測を継続し,多くの方々と協力して研究を推進する環境を維持していく所存です.

6.2 情報の提供と発信
十日町試験地では新潟県,十日町市などの自治体,マスコミ,大学,民間企業,一般市民などからの要望に応じて,降積雪や気象に関するさまざまな観測データを提供してきました. また,十日町試験地のホームページでは,降雪深,積雪深,屋根雪情報など冬の日常生活に必要な情報を中心にデータを提供しており,毎年約2万件のアクセスがあります. 大雪の年や大雪の日には特にアクセス数が増えることから,多くの市民や企業,団体が屋根雪下ろしや除雪のために雪の情報を必要とされていることが分かります. 近年のスマートフォンの普及によって,アクセス数は増加傾向を示しています. 今後も降積雪・気象観測を継続することで,成果の社会還元を続けてまいります. ここで述べましたように,十日町試験地が100年間存続してきた理由のひとつは,森林測候所時代から行われてきた降積雪・気象観測の継続だったのではないか,と考えています. 今後も観測を継続する基本姿勢を貫くことで,皆様のご期待に応えたいと考えております. 今後ともご支援ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます.
引用文献
- 独立行政法人森林総合研究所,2005:林業試験場から森林総合研究所へ.森林総合研究所百年のあゆみ,3-29.
- 遠藤八十一,1993:降雪強度による乾雪表層雪崩の発生予測.雪氷,55,113-120.
- 平島寛行,2014:積雪変質モデルによる雪崩発生予測の現状と課題.雪氷 76,411-419.
- 石川政幸・渡辺成雄・大関義男・佐藤正平,1978:積雪グライドと雪崩による雪崩防止柵の被害(1).雪氷,40,128-138.
- 石川政幸・渡辺成雄・大関義男,1979:積雪グライドと雪崩による雪崩防止柵の被害(2).雪氷,41,131-141.
- 勝島隆史・嘉戸昭夫・相浦英春・南光一樹・鈴木覚・竹内由香里・村上茂樹,2017:気象条件に対する冠雪重量変化の解析とモデル開発. 第128回日本森林学会大会学術講演集,I6.
- Lied, K., Bakkehøi, S. 1980: Empirical Calculations of Snow–Avalanche Run–out Distance Based on Topographic Parameters. Journal of Glaciology, 26, 165-177.
- 村上茂樹・竹内由香里・庭野昭二,2015:3 種類のスギ林と裸地における積雪水量と融雪の比較.雪氷研究大会(2015・松本)講演要旨集,143.
- 中俣三郎,1987:雪崩対策の歴史.新砂防,40,32-38. 農林省林業試験場編,1960:第一期治水事業の森林測候所 財団法人 林野共済会,pp.199.
- 大田伊久雄,2015:我が国における国有林の存在意義に関する一考察.林業経済研究,61,3-14.
- 佐伯正夫・若林隆三・渡辺成雄・大関義男・庭野昭二,1981:豪雪地帯の森林伐採と雪崩.雪氷,43,15-20.
- 高橋喜平,1953:雪の祭典.明玄書房,pp.230.
- 高橋喜平,1960:雪崩の被害.雪氷,22,7-9.
- 高橋喜平,1974:日本の雪.読売新聞社,93-96.
- 高橋喜平,1979:雪国の人びと.創樹社,147-155.
- Takeuchi,Y., Endo, Y., and Murakami, S., 2008, High correlation between winter precipitation and air temperature in heavy-snowfall areas in Japan. Annals ofGlaciology, 49, 7-10.
- 竹内由香里・遠藤八十一・村上茂樹・庭野昭二,2007:新潟県上・中越地方の冬期降水量と気温および風向の関係.2007 年度日本雪氷学会全国大会,30.
- 竹内由香里・西村浩一・Abani Patra,2012:流下する雪崩に対する森林の減勢効果.雪氷研究大会(2012・福山)講演要旨集,112.
- 竹内由香里,2013:妙高山域の幕ノ沢における雪崩の観測.砂防学会誌,66 62-66.
- 十日町商工会議所,2011:十日町雪ものがたり120 ‒ 雪とともに生きる‒.54.
- 山野井克己・遠藤八十一,2002:積雪におけるせん断強度の密度および含水率依存性.雪氷,64,443-451.
- 山野井克己・竹内由香里・村上茂樹 2004:プッシュゲージを用いた斜面積雪安定度の推定.雪氷,66,669-676.