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ホーム > 九州支所紹介 > 施設案内 > 実験林 > 立田山実験林の沿革 > 九州支場(現森林総合研究所九州支所)周辺〈黒髪地域〉のいわれ

更新日:2022年11月21日

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九州支場(現森林総合研究所九州支所)周辺〈黒髪地域〉のいわれ

昭和52年12月1日発行農林省林業試験場九州支場「三十年のあゆみ」より
一部誤謬訂正

1 .立田山南麓の古墳群

 立田山の周辺とくに南・西の山裾には,考古学的遺跡が多い。熊本市立田口陣内,黒髪町字留毛,下立田地区などにある円形古墳群,横穴式古墳群,縄文期,弥生期の土器・石器などがそれである。

 熊本市発行・昭和34年12月・「史蹟乃熊本」第8輯によると,かつて大古熊本地方が海湾をなしていた当時はこの立田山地方は,古代人の居住地帯であったので,弥生式,縄文時代の土器の破片や石器が,丘腹地方には,いまも各所に点在して考古家を趣味あらしめていると述べられている。

 昭和44年度「熊本市北部地区文化財報告書」によると,円形古墳7個所ばかり,横穴古墳群6個所ばかり,縄文式土器,弥生式土器,須恵器,土器,石器など10数所から出土している。古墳からは金環・勾玉・刀子・管玉・ガラス玉などの副葬品が出土したことを詳しく報告されている。

 昭和50年11月,地元黒髪小学校百周年記念誌「黒髪」の1項目「黒髪地方の歴史的考察」のなかに,古墳について次のようにしるされている。「3世紀後半より,多くの古墳が作られた。古墳時代である。宇留毛神社(熊本市黒髪字留毛)西の暗い杉林のなかに古墳がみいだされる。この小円墳は,この附近にかなり多く存在したと思われる。立田山南麓古墳上・下二つの横穴式石室から,鉄鏃・刀の鍔・刀片, 刀子片・金環・須恵器杯などが出土している。金環等の出土品があることからみても,この古墳にねむる小豪族が,他の地方との結びつきを深めていたようすをうかがい知ることができる。金属器具等の普及による生産力の向上に伴い,小豪族が各地にあらわれ,中央との結びつきを深めていったようである。

 字留毛神社古墳群から東に,字留毛小磧橋際横穴群・つつじが丘横穴群・浦山第1,第2横穴群など立田山南麓の大横穴群がある。6世紀後半にわたる古墳時代後・晩期に属するものである。とくに浦山第1横穴群は出土遺物および横穴の構築様式から7世紀後半のものと推定されている。A・B 2群からなり,ともに羽子板状の前庭通路を中心に,小型横穴や極小横穴が群をなして造られている点にいちじるしい特徴がみいだされる。古代家族の構成や社会生活のあり方を知る一つの手がかりになるものとして注目されている。

 このように古墳時代遺跡の分布状態をみてみると,小円墳は,立田山山麓台地上に集中し,横穴鮮は浦山を中心に山麓の斜面に集中している。古墳時代から後の古代社会で多く使用された須恵器の出土遺跡は,立田山山麓の水田直上台地に点在している。

2 .立田山山神の碑と御山支配役

 林業試験場九州支場の立田山実験林の中腹,海抜約100mのところ9林班3小班内に「山神」とほりこんだ石碑がたっている。その裏側に 「文化12年乙亥(きのとい)12月朔日(ついたち)新造立之 催主内藤政徳」右側には「御山支配役 古谷甚兵衛 御山治 新左右衛門」左側には「石工忠八,晋助」と刻んである。

 文化12年(1815年)といえば,いまを去る162年前のことになる。この年に 相前後して,文化7年には伊能忠敬が,肥後の海岸を測量している。また文政元年(1818年)には頼山陽がこの熊本城下を訪ねている。

 この石碑に刻まれている御山支配役について,「熊本の歴史」・「小国郷史」・「黒髪の歴史」などの資料によると,細川重賢(1718~85,細川家8代)の宝暦年間にこの制度がおかれたとある。細川氏が行なった地方行政のなかに「手永」(てなが)とよばれる制度がおかれた。「手永」は石高一万五千石ぐらいで,20~30町村を一区画とする地方行政の制度である。当時の黒髪(立田山一帯を含む)は飽田郡五町手永(字留毛村・下立田村・坪井村)に属し,その長が総庄屋である。その補佐役の1人として,御山支配役がおかれている。(総庄屋・牧山支配役=御山支配役・横目付を手永三役という)

 御山支配役は総庄屋と協議して,郡奉行の許しをうけ,山林の育成保護にあたっていたようである。そのもとに御山治めがいて,無苗で地方の豪農であったという。

 この立田山の西側にも同じような山神の碑があり,文化7年(1810年)建立となっている。また字留毛神社近くにも山神の碑がある。熊本市北部地区文北財報告書によると,「山神明王」と刻んであり,「享和元年酉(1801年)十月吉日」と年号が入り,碑の裏には「御山支配役 古谷甚右衛門 御山治役 勝木利平次,字留毛村庄屋清四良,同村御山ノ口孫右衛門,同村石工和七,伊助と記されている。

 山神祭については,国有林の慣習として,第一線の現場では,旧暦の9月16日に,山仕事の安全祈願と従業員の選奨などの行事を行なっている。われわれも毎年その山神碑前でささやかな山神祭を行なってきた。

 去る6月1日,今年が九州支場創立30周年にあたるので,かねて準備を進めていた鳥居もできあがったので,大西支場長が催主となり,地元藤崎八幡宮宮司司祭のもとに,九州支場の発展,職員の健康,安全の祈願祭が,その日激しい雨のため,支場大会議室において,おごそかにとり行なわれ、その昔山の鎮めを山神に祈ったという敬神の念にあやかることができた。

3 .寛永の頃の立田山と猪狩りなど

 52年8月のある日,はからずも立田山自然公園内の細川立田邸において,長岡観鳳画伯の筆になる「寛永の泰勝寺」という日本画を拝見した。30年の五輪会へ展示されたものを熊本市に寄贈されたものである。

 立田山のうっ蒼とした森林を背景にして,泰勝寺とその下寺の伽藍堂塔がいきいきと描きだされている。真近にみると霊域の神々しさが心に迫ってくるようである。

 その宮本武蔵ゆかりの五輪会に 展示された説明には次のようにかかれている。「三百数十年前,武蔵健在の頃,度々訪ねたであろうと思われる細川家の菩提寺泰勝寺の伽藍及びその周辺の下寺との関係位置を,弘化・寛永の頃の古図面から描き上げた次第である。一部が自然公園になっている,今日の歴史を訪ねる方々の,参考資料となれば幸である。」と。

 熊本市北部地区文化財報告書によると,泰勝寺は慶長16年(1611年)細川忠興が,父幽斉追善のため,小倉に泰勝院を建立した。寛永10年(1633年)忠興は肥後八代に移し,仝14年忠利が下立田の現在地に別に泰勝院を建立した。仝19年大渕和尚を招聘して住職とした。正保3年(1646年)忠興の死後八代の泰勝院を廃し,下立田の泰勝院を,瑞雲山泰勝寺とした。明治維新後の神仏分離によって,細川家が神道に 帰依したので廃寺となった。

 その頃の立田山について,「記念誌黒髪」の黒髪年表によると寛永13年(1636年)立田山入山厳禁の制札立つ。寛永9年・立田山猪狩り,元禄3年・立田山猪多く作物を荒す。享保11年・立田山猪狩り,寛政元年・字留毛村立田山山潮,享和元年・山神明王の碑たつ(字留毛),文化7年12月・山神碑たつ,嘉永元年・立田山で猪狩り,明治元年(1868年)・明治維新。

 このように立田山は禁制の山として,みだりに伐採が許されなかったようである。そのためか猪などの野生鳥獣も多かったようである。猪といえば九州では現在九州の中央山脈の奥山といわれる地帯に生息している。この立田山地帯に出没していたというから,深山幽谷をなしていたことであろう。

 このほか地名に兎谷とか,渡鹿とか,鶴のつく地名があり,かつてはこうした野生鳥獣の王国であったのかもしれない。

4 .紅葉山と小峰忠霊塔

 九州支場敷地の西側に,通称「紅葉山」とよばれる一角がある。この丘にはかつての里道のあとがあり,両側にヤマモミジとヤマザクラの古木が,並木植にされたらしく,何本かが残っていて,春は山桜,秋は紅葉のいろどりをとどめている。古老の話しによると,熊本では珍らしい山桜の名所であったということである。いま残っている山桜は,環境が住みづらくなったのか,わずかに余命をつないでいる。

 このあたり一帯は洪積台地といわれ,紅葉山の切取り断面に砂れきをまじえた洪積層があらわれ,庁舎・樹木園・苗畑敷一帯にも広がっている。

 この紅葉山に 続く丘も,現在は立田山登山道路に 通ずる堀切りができて,支場側と小峰墓地公園側に二分されている。西側の墓地公園は熊本市環境衛生課の所管になっている。 昭和30年3月,熊本市の都市計画により,忠霊塔がたてられ,その碑文には次のように刻まれている。

 この地はもと明治十年役,仝二十七・八年戦役,済南事変,満州事変,大東亜戦争に於て,国難に 殉じた勇士の霊域であったが,今次都市計画に伴い,全域を近代的墓范に改め,且つ功績を永く伝えることになった。題字忠霊塔の三字は,大慈寺の開祖寒巌禅師の筆蹟を国宝大渡橋由来記の中から之を択み,浮彫は海老原喜之助画伯が,パリのサロン・ド・メエに出品して,絶讃を博した絵画殉教者を自ら彫刻したものである。冀はくはこの地に??する者,親しく塔を仰いで古を回顧し,英霊を追悼されんことを。
 昭和三十年三月 熊本市長 林田正治
 この除幕式は昭和30年3月16日午前10時から挙行された。一万三千八十六柱が合祀されている。 巾23メートル,奥行11メートル,高さ7メートル,中央の塔の下に約1坪の3段に 区切られた納骨堂がある。

5 .桜山神社と神風連

 九州支場から南に下ると,5~6分で桜山中学校にいたる。場員子弟も通学している。そこに隣接して桜山神社がある。国道57号線に面し,近くには一里木の榎の碑がたっている。

 「桜山神社の記」によると,明治18年11月熊本城の東・字留毛一里木の辺を卜して,二基の豊碑を建設した。さかんに境内に桜樹を植え,名づけて桜山と称した。その二碑とは,ひとつは「誠忠之碑」で,明治維新の際国事に殉じた勤王志士宮部鼎蔵ほか二十余名を祀った石碑,ひとつは「百二十三士之碑Jで明治九年の神風連の変にたおれた太田黒伴雄・加屋霽堅ら百二十三士の霊を祀った碑である。大正二年,桜山桐殿がだてられ,桜園林有道先生はじめ,維新前時における宮部・松田・太田黒・賀屋大人以下肥後勤王の同志二百余士の神霊を斉鎮した。つづいて大正十五年拝殿が造営された。昭和二十三年九月一日,新しい国是の下に,御祭神のすべてが尊崇あつかった天照大神・豊受大神を主祭神として奉斎し,相殿神として従来の各神霊を合祀して,惟神の大道を遵い普く神恩を感謝し奉載し,淳厚なる民風を興し,世界永遠の平和と人類の福祉とに寄与することを悲願として,神社に昇格し新発足とした。

 入口鳥居右側碑,「桜山」には たちとまり誰か見ざらむ桜山やまとごころの花にいでしを,明治18年11月建立,境内東面には,宮部鼎蔵先生歌碑,いさ子ども馬に鞍おけ九重の御階の桜ちらぬ その間に,境内にはホホノキが1本大きく葉をしげらせ,多くの桜が植えられ,春の桜花は,神霊をおなぐさめ申すことだろう。境内の奥には神風連百二十三烈士の墓碑がある。

 相殿神には,①国津彦稜威千別根命:桜園林有通大人,②健雄神霊:宮部鼎蔵ほか勤王の志士,③大御門護厳矛神霊:敬神党百二十三士,④美明玉神霊:同志たちは次々に合祀された,⑤健功女神霊:阿部景器妻以幾子(敬神党阿部景器に殉死〉がお祀りしてある。

 今年は西南戦争百年の行事が熊本市・鹿児島などで行なわれている。昨年は神風連百年の慰霊祭ほか多くの行事が催された。百年前,熊本敬神党は滔々と押し寄せる文明開花の欧米至上主義に 抗し,明治9年10月24日,日本の文化・伝統の権化となって決起した。総勢百七十余名,勝敗を考えず,ひたすら神に 伺い,お告げを受け行動した一「神ながらの決起」たるゆえんであると,大隈三好著「神風連」には書いている。その殉難烈士一覧によると,戦死28名,自決82名ほかとなっている。ある人は西南戦役に比べ神風連の変は信仰・思想のたたかいであったという。私利私慾をなげすて,ひたすら至誠に殉ぢた烈士の墓前にぬかずくとき,粛然として襟を正し,感奮するものをおぼえる。

6 .旧制五高と立田山

 当九州支場の地元にある黒髪小学校は,1昨年の昭和50年11月,創立百周年を迎え,記念行事が行なわれた。祝辞や思い出話のなかで,黒髪小学校区ほど教育的・文化的環境に恵まれたところは少ない。なんとなれば当時,九州の最高学府である第五高等学校(現熊本大学法文学部・教養学部・理学部・工学部〉をはじめ,熊本の名門校済々黌高校,熊本市立高校,九州女学院(高校)など学校聚落のなかにある。熊本市はいま,都市づくりの基本構想のなかで,1本の柱として、"風格ある文教都市"を掲げその実現を目指している。この地区はそれに最もふさわしい文化度の高い地域である。等々が語られている。

 今年はその日制第五高等学校の開校90周年の年である。五高は明治20年(1881年)5月の創立である。当時の校名は第五高等中学校であった。27年第五高等学校と改正された。30年には工学部が付設された。そして昭和25年に最後の卒業生を送り出した。この間約1万5千余の英才・俊才を世に送り出している。五高には広く西日本の秀才が集まり,その教官もそうそうたるメンバーが着任している。

 文豪夏目金之助(漱石)は明治29年春から7年間講師として英語を教え,のちー高に移る。五高創立十周年の記念日に当り,漱石は「夫レ教育は建国ノ基礎ニシテ,師弟ノ和熟ハ育英ノ大体タリ」と述べたという。明治24年8月,嘉納治五郎が30歳の若さで,第3代校長として赴任,まもなくラフカデイオ・へルン=小泉八雲も英語教師として,明治24年11月から明治27年10月まで,3年間を熊本市ですごしている。八雲は質実剛健な熊本魂に 魅せられたという。九州支場敷地内紅葉山の西側小峰墓地公園内に,いまも残っている石仏を愛し,授業の合間など,その石仏に 語りかけるのが好きであったという。

 去る5月31日,五高寮歌で知られる熊本市の立田山に「五高の森」が完成し,その記念植樹が行なわれた。東は阿蘇の外輪山,西には熊本城・金峰山が望める熊本市黒髪8丁目の甲山(かぶとやま)の一角である。支場実験林1林班の東側にあたるととろである。

 この日かつての五高OBによって,約1haにクス・ツツジ・サザンカなど,約千3百本が植えられた。林田正治五高同窓会理事長(大正3年卒,元熊本市長)星子敏雄熊本市長(大正14年卒)他20人が参加した。

 林田理事長は「五高時代はなにかにつけて立田山に登りよく寮歌をうたった。すばらしい眺めのなかに、"五高の森"ができて,当時の精神がよみがえってくる」と語り,星子市長は「五高出身者にとって,思い出の懐かしい地に記念の森ができてうれしい」とあいさつされた。

 この地区は国・熊本市とともに熊本県が主体となり, 49年からはじめられている「立田山生活環境保全林整備事業」地域の1部になって,保健保安林の指定区域内である。

7 .天皇皇后両陛下立田山に行幸啓

 天皇皇后両陛下は,昭和33年4月8日,大分県別府市鶴見岳麓の志高湖畔で行なわれた第9回全国緑化大会に御出席になられた。(テーマは原野造林,植栽樹種スギ)そのあと九州を御巡幸になられて, 4月13日から16日まで熊本でおすごしになられた。

 その第2日目の14日,御宿舎をたたれて,子飼橋,リデル・ライト記念養老院に立寄られて,10時半頃立田山山頂にお登りになられた。

 この日の熊本日日新聞は次のように報じている。「快晴の日本晴,木芽冷え,舗装された立田山自動車道の両側には,行幸啓記念の桜並木,叢林の間に黒松の若木の群がすくすく育つ,戦後十余年にして若返った立田山である。淡碧の空,さんさんとぶる陽光のなかに両陛下をお迎えして,緊張のしじまがとけた立田山山頂は,ワーッと歓声爆発し,打振る千五百の日の丸の小旗が,青空に映えてうつくしい。御野立所の眼下には,熊本市街,遠くに肥後平野がひろがり,かすみの衣着て天皇日和に輝いた」と山帰来氏がかいている。

 時の熊本市坂口主悦市長は陛下の前に進み,一般熊本市の概況,この御野立所からの眺望景観についてご説明申じあげ,ついで32年7月26日熊本市を襲った大水害について,るるご説明申しあげた。陛下は終始うなずかれていた。151.6メートルの頂上のこととて,木芽冷えの風がかなり強くなり,陛下はここで合オーバをめされたが,そのとき皇后様は天皇の帽子をお持ちになり,すかさずオーバーのボタンをはめておやりになる仲むずかしいお姿を拝見したことを,いま思いだす。われわれ九州支場の三井場長ほか場員は,特別席でお迎えし,し尺の間に両陛下を拝し,感激ひとしお深いものがあった。まもなくその御野立所には行幸啓を記念する記念碑がたてられた。

 前記熊日の記事のなかにもあった立田山の登山道路は,両陛下をご案内するため熊本県において,工費340万円で33年1月7日から突貫工事で着手した。3メートルの道幅を5メートルにひろげ, 1部舗装したあとは砂利を敷いて整備した。延長約千メートル,そのほとんどは九州支場の実験林を貫通している。2月中旬に完成した。

 その両側に植えられた山桜ほか行幸啓の記念植樹は, 3月1日から開かれた「緑の週間」の第7日目, 3月7日,山桜2百本,ツツジ百本のほか2百本あまりが植えられた。坂口熊本市長,相馬熊本県林務部長,島本熊本営林局長ほか,地元立田山公園期成会会員や近傍の清水・立田・黒髪・竜南の各小中学生ら, 5百名が参加し,手に手に苗木をもって植樹した。もちろん九州支場も参加したが,とくに山桜は樹高4~5メートルもある大苗で,支柱も十分でなかったため,全部が活着しなかったのは残念であったが,いま現存しているものは毎年春になると馥郁とした花を咲かせる。

8 .金峰山県立自然公園と立田山

 この立田山は,金峰山県立公園のひとつとして,熊本県立公園条例第3条により,昭和30年4月1日に指定された。33年10月21日熊本県条令第45号「熊本県立自然公園条例」が公布され,そのまま金峰山自然公園となった。 その条例第1条(目的)とは,この条例は自然公園法の規定に基き,県内にあるすぐれた自然の風景地を保護するとともに,その利用増進を図り,もって県民の保健,休養及び教化に 資することを目的とする。とうたわれている。

 当時の県立公園選定標準として, (1)県において代表的な自然風景であること,(2)自然環境が保健的であって,多人数の利用に適すること,(3)県民の教化に資する資料に富んでいること,(4)土地所有関係及び産業関係が県立公園設定に支障の少いことがあげられている。

  この立田山をその標準にてらしてみるとき,現在自然環境の保全が強く叫ばれている折柄,どの条項をとっても,うなずくことができる。すなわちこの立田山は景観が雄大である,自然の風景地で地域が広大である,気候・土地・水等の自然要素が保健的である、交通便利にして公衆の利用に適する位置にある,史跡・遺跡・名勝等の文化財および特殊建造物等の文化要素をふくんでいる等々。

 立田山は西の金峰山とともに熊本市民に親しまれてきた。昭和5年12月8日,八景水谷,水前寺成趣園,江津湖などとともに風致地区として指定された。その理由書には「都市ノ風致ヲ維持シテ都市民ノ慰楽ニ備フルハ,都市計画上重要ナルコトニ属ス。今熊本市ニ付之ヲ按スルニ該市ハ所謂城下町ニシテ,市ノ内外に 亘リ相当風致ニ富メルトコロ少カラズ。然ルニ,近時,市街地ノ膨剛ニ連レ,是ラ景勝ノ地モ,動モスレバ毀捐セラレルノ虞アルヲ以テ,就中顕著ナルモノ,即チ,八景水谷・立田山………等別紙図面表示ノ区域ヲ風致地区ニ指定シ,風致維持ニ影響ヲ及ボス虞アル行為ヲ禁止制限セムトスルモノナリ」(熊本市史より)また県・市の環境緑地に指定され,「生活環境保全林」の整備事業も進められている。

 このように立田山地区には幾つかの規制のネットがかけられている。その主なものとして,前記と重複するけれども,市街化調整区域の規制,自然公園法にもとづく規制,文化財保護法にもとづく規制,森林法にもとづく規制などがあげられる。

  「黒髪誌」によると,今から7千年の昔の頃このあたりは万樹うっ蒼として,その山裾の原野にウサギ・イノシシを追い,果実を貯蔵し,小人数で生活した原始時代がはじまり,縄文・弥生・古墳時代へと展開していった。 時はうつり,人智の発達,文明・文化の進展によって,都市化の波が立田山を蚕食しようとしている。立田山の自然を積極的に保護育成することは,われわれの責務である。 いま立田山規制を再掲すると次のようになる。

            区    分    指定年月日
         風致地区        昭年 5年12月 1日
         金峰山県立自然公園   〃 30年 4月 1日
         宅地造成工事規制区域 〃 42年 2月 1日
         市街化調整区域     〃 46年 5月18日
         保安林
          土砂流出防備保安林  〃 50年 9月25日
          保健保安林      〃 50年 5月24日

9 .豊国廟跡と立田自然公園

(1) 豊国廟跡

 九州支場立田山実験林の中腹,海抜百メートルぐらいのところ,立田山配水地の上の段の平地,約8千平方ばかりのところに,豊国廟(豊国大明神宮)跡の遺蹟がある。いまより約370年前(慶長年間),ときの熊本城主加藤清正公は信仰の念あつく,主君豊太閣の徳をしたって,京都の方向に当る立田山の中腹に廟を設け, 朝な夕な遙拝したという。屋根瓦には金箔をほどこし,金色にきらきらと輝き,豪華を好んだ旧主へ忠誠をつくしたと伝えられる。加藤氏移封後は,社殿はとりこわされた。熊本市北部地区文化財報告書によると,大正14年12月下旬平野流香氏が,その個所より軒瓦を発見し,その瓦に金箔をぬられたあとが歴然と残っていることにより,実証されたとある。

 広場の西寄りのところに二つの幾かかえもある自然石がある。西側のひとつには,小石がうず高く積まれている。燈明所など設けられ,豊太閣の理知に秀でたそのおかげにあやかろうとするのか,いつの間にか脳病の神さまとしてあがめられ,近郷からお参りが多い。この自然石にアラカシ・ハマクサギ・ポロポロノキの古木にまじって,シャシャンポが1本,神木としてこの石を守るようにして生えている。普通低木としてみかけるシャシャンポであるが,胸高直径40センチあまり,樹高は先端が風折れし6メートルばかりである。この遺跡とともにたえぬいたならば, 3百年以上の樹令であろう。

 この一角に昭和4年4月2日,天然記念物に指定された「立田山ヤエクチナシの自生地」の標柱がたっていたが,戦時中周囲の木が伐られ,環境がかわったためか,みだりにとり尽されたのか,ほとんど見かけることができなかった。昭和44年その一株が発見され,大切に保存され,その記念碑がたっている。

(2) 立田自然公園

 ここは熊本市の観光バスのコースになっている。国道57号線の熊大東角から立田山に向けて入ると立田自然公園にいたる。ここには細川家代々のうち,藤孝公夫妻・忠興公夫妻,斉茲公,韶邦公,護久公らのお墓がある。かの戦国の花嫁として数寄の運命をになった細川玉子ガラシャ夫人のみたまも,夫忠興公とともに静かに眠っている。

 細川家の菩提寺跡もこの地にある。西側の奥まった一角に泰勝寺歴代住職の墓地がある。この墓地のなかに五輪の塔を形づくった伝宮本武蔵の墓がある。この公園のほほ中央には,百年以上たったと思われる杉の古木があり,その下に美しい苔園がある。その近くに立田山ヤエクチナシの保存木2本が6月下旬ふくいくとした八重咲のまっ白な花を毎年咲かせている。凹地は大きな池になって,その奥に細川家二代三斉公が設計したという茶室「仰松軒」がある。

 この茶室ではときどき茶会が催される。客は対岸の池のほとりを山道づたいに,池にかかる渡月橋を渡って待合室に足を運ぶ。仰松軒の苔庭にある飛石をつたいに蹲据(つくばい)へ,三斉公遺愛の平手ばちで手を洗い口をすすぐ,濃茶室仰松軒へ,鏡の間といわれる淡茶席に 移る。最後に書院の点心室では,野趣豊かな酒淆の会が開かれる……,熊本日日新聞「お茶の楽しみ12章」の一節から引用した。

 この公園内には,コヅイ・クスの大木にまじってイチイガシの大木が何本かまじっている。モウソウチク林のなかには,四方竹という竹がよく繁茂している。エドヒガン・ヤマモミジ・サンシュウ・ウメの古木のほか,シナノキ・ケンポナシ・カヤなど,この地方に珍らしい樹木が生育している。

10.立田山配水池の森

 今年から8月1日を「水の日」に制定された。貴重な資源としての水を大切にしようということである。熊本市の水は全国でもまれにみる名水として知られている。熊本市へ転勤した人がまず喜ぶのは," 熊本市のみずはおいしい" ということである。それは熊本市とその周辺に 地下水が豊富に湧きでている湧泉が多く,その地下水が上水道になっているからである。

 立田山の西山麓に 近い「八景水谷」・亀井ほか水前寺公園,江津湖などそのひとである。「熊本の自然」熊本日日新聞社発行の「八景水谷」によると,この付近一帯にひろがる白川北岸台地西側の末端段丘崖の下に,大小の湧泉が点在している。八景水谷湧泉群である。湧泉の量は毎秒0.7~1トン,水温は19℃~21℃で,夏冷たく冬暖かい。溶存成分は少なく,濁りは年聞を通じて認められていない。熊本市上水道の発祥の地でもある。現在でも需要量の15~16%にあたる日量3万トンがここから供給されている。

  この地下水を立田山の南面中腹標高72.7メートル(所在地,熊本市黒髪4丁目774)に送水し,自然流下方式により配水される。

 熊本市水道のあゆみによると,大正12年5月立田山配水池が完成,13年11月通水開治,昭和31年・37年・38年と配水池を増設し,配水池総容量22.500?となる。40年3月立田山加圧ポンプ所が完成し,健軍水源地の水も送水されている。

 この立田山配水池は九州支場立田山実験林,立田自然公園および細川家伺堂の森林に 接し,配水池をパックにした森もうっ蒼と茂り,水と森林のイメージが浮彫りにされ,熊本の水のおいしさ,清洌さをしみしみ感じさせる。森林の効用のひとつとして水源涵養機能があるが,われわれはそうした森づくりにも努力している。

11.九州支場と熊本県護国神社

 現在の九州支場の敷地, 13.687坪,約4.60haは,昭和28年3月31日,林野庁において,熊本県護国神社から購入し,仝4月18日第2926号をもって登記された。

 これについては熊本県のなみなみならぬ御配慮と熊本県護国神社の深い御理解によって実現したことを,いま再び銘記して感謝の意を表したい。

 戦後の林政統ーによって,昭和21年9月,林業試験場運営方針とその施行要領によって,全国の森林植生の分布によって,北海道・本州北部・中部・西部・四国・九州に分けて,その各地に 支場がおかれることになった。熊本支場はそのひとつとして,仝22年12月1日に開設された。経過的措置として,熊本営林局に併置され,従来局が実施してきた諸試験,収穫試験,土壌調査等を引継いで実施してきた。

 昭和25年度より林業試験業務は,大きな観点から,国有林野事業特別会計から一般会計に切替えられるこになり,九州林業の技術向上のため飛躍する契期となった。仝26年度に庁舎・研究室を宮崎市に新設して,従来の田野分場を移し,宮崎分場と改ためた。27年度より九州支場の構想のもとに,その位置を九州のどこに設置するかということが論議された。地元熊本県では機を逸せず,林業試験場熊本支場誘致期成会を組織され,きわめて活発な運動を展開された。熊本営林局・林野庁・その他関係方面の積極的な協力が結集され,①熊本市がほぼ九州の中央に位し,②地元に熊本営林局があり,③また近くに実験林がえられるなどの好条件を具備するとこから,この熊本市に決定された。

 さて用地買収については,熊本幼年学校跡地(現熊本営林局監物台樹木園),黒石原の九州農業試験場用地などが候補地にあがった。そして現在地が決定された。当時の公文書をひもといてみたい。

 昭和28年熊試第95号,28年2月26日,熊本支場長より農林大臣あて,件名「国有財産法第14条の規程による財産取得について」そのなかで,「取得しゃうとする事由」として……九州はその位置的性格からみて,温度・光・雨に恵まれ,木材生産に必須の条件を,総て兼ね備えておる。然も尚,熱帯及亜熱帯を失った我が国に於ては,それ等の資源培養の基礎を,此の地帯に於て確保する必要がある。この為林業試験場熊本支場を,営林局構内の一隅より独立せしめ,施設・内容共に充実した支場を建設することについて,上局の承認される処となり,昭和27年度に於ては,先ず土地購入費300万円が示達され,早速支場用地の物色に当った処,偶々林業試験場としての必須要件である,①交通至便であること,②相当面積の附属実験林が近くに得られること,③室内実験の為ガス・水道の施設が容易であること等の条件を,充分満しうる好個の適地,熊本市黒髪町大字下立田の熊本県護国神社敷にあり,右は昭和19年熊本県護国神社建立予定であったが,翌20年の終戦にあい,その建立も中止のまま,今日に至ったものである。

 今般林業試験場熊本支場建設の機運熟するや,熊本県・市並に熊本営林局其の他関係当局の絶大なる協力に依り,該地の折衝を重ねた処,神社側も当支場設立の趣旨を諒とし,適当な替地がえらるるに於ては,これが提供に応ずることとなり,幸いその替地の見透しもついたので,売払の承諾をえたものであり,本地域に接続する立田山の1部30町歩余りの山林も附属実験林並苗畑敷として入手が略確定し,極めて好条件を具備したものであり,是非取得し度い。…

 当時現地を検分した1人として,そのときの模様を書きしるしてみよう。いまの正門のあたりから入ると,現在公務員宿舎のあたりには,製材所があって,台湾・阿里山の大きなヒノキ丸太が何玉かころがっていた。坂をのぼって台上の広場にでると,北側はうっ蒼としげる細川家桐堂の森,あとは一面の野原であった。裸地の部分は運動場に使われているらしく,その他は丈の低いカヤ・ササがおおっていた。東・南・西は開け,とくに南側は復興途上の熊本市が俯瞰される。台地の東側1段高いところは,護国神社本殿の予定地であって,冬枯れのススキにまじって,岡山県産のみかげ石が散らばっていた。

 戦時中この地が護国神社予定地になるや,熊本市民,近郊の人々の人海作戦による汗の奉仕の地均しが続けられた。とくに地元黒髪・下立田地区の人々の御苦労はいまに語りつがれている。

 この地を買収するときに,熊本県護国神社の設計図をみせていただいたが,いまの国道57号線ぞい,立田自然公園入口のバス停附近から,この台地へ斜1直線の広々とした参道が抜けて,約4万㎡の広大な神范の青写真が思いだされる。昭和20年1月25日地鎮祭がおごそかにとり行なわれたが,その年の8月15日終戦となった。護国神社の替地は,熊本市宮内3番1号にえられ,昭和32年4月末に竣功し5月10日鎮座大祭が行なわれた。

12.皇太子ご夫妻九州支場御見学

 37年5月13日,皇太子ご成婚3年目,おそろいでこの九州支場へおいでになられた。29年4月熊本営林局から移転し,日も浅くご覧いただくには十分整なってはいなかったが,光栄これにすぐるものはなく,ときの片山支場長を中心に,準備万端,最善をつくしてその日をお待ちした。

 その頃九州支場における試験研究の課題はスギが中心になり,品種・特性・適地・保護などに集中し,スギの凍霜害,マックイムシの防除などとともに図表,実物標本,写真など展示してど覧いただくことになった。

 この日はわれわれの誠が通じたのか,五月晴の青空がすがすがしくひろがっていた。皇太子さま・美智子さまの御似合のカップルをお迎えして,思わず歓声がわきおこった。片山支場長がうやうやしく御説明申しあげ,廊子づたいの標本館へご案内申しあげた。熊本日日新聞の記事を引用すると「ご夫妻は標本室で片山支場長の説明をお聞きになったが,マックイムシの被害について,皇太子さまは,"このムシはマツ以外は食害しないか"とお尋ねになり,食害された松の木を興味深かげにごらんになっていた。

 また九州地方に多いスギの幼樹の凍害について、"防ぐ方法はないか,凍害に 強い品種はできないのか"と質問され,片山支場長は、"あとしばらくしますと研究の結論がでます"とお答えした。

 スギの品種改良については,熊本には「雲通し」という精英樹があることをど説明すると,皇太子は、"交配はしないのだね"とおたずねになった。

 そのあと研究室,苗畑をごらんになり,テニスコートを通られ,樹木園をごらんになった。樹種は約4百種ばかり,植栽して日も浅くまだそれぞれの特性もみられず,お喜こびいただけたかどうか。ただ後の立田自然公園の森をパックにしたこの前庭には,ご興味があったようにお見受けした。

 その頃の木造平屋建は白アリによる蝕害,試験研究の進展による狭隘などのため,とりこわし鉄筋コンクリート造2階建の共同試験室が新設され, 43年10月24日落成式が挙行された。

 標本館はそのとき整備され,それを骨子として年々標本数も増加している。そのときの樹木園は庁舎建設のため撤去され,中庭に移植,10年余をへて,それぞれの特性があらわれ,研究の用にも供されるようになった。

13.熊本の植木市と肥後の名花

(1) 熊本の植木市

 熊本市には毎年2月初旬から,春にさきがけて,恒例の植木市がたって,熊本の風物詩のひとつになっている。今年は市肉本山町,自川左岸に3万㎡の敷地で,約380の業者が参加し,ざっと百万本の植木類が出品され,"くまもと春の植木市"と銘打って緑の祭典が開かれた。

 この植木市はいまから約4百年前,隈本城主であった城親賢公(天保9年12月29日=1581年卒)が,当時の;城下町の古城一帯(現新町附近)の繁栄をねらって始めたと伝えられる。毎年植木市にさきだって,公の墓前祭が熊本市島崎岳林寺境内で行なわれる。

 時代は加藤・細川藩時代と続くが,植木市は熊本の伝統行事として,いまに続けられている。大津街道の杉並木づくり,ハゼの植栽,水前寺成趣園づくりなど,苗木の供給から庭園づくりなどへと広がっていった。肥後の名花,ツバキ・サザンカ・ショウブ・キク・アサガオ・シャクヤクなども,こうした下地のなかから育てられたといわれている。

 熊本のお国じまんのひとつに森の都がある。その象徴は壮大な造形美をかたちづくっている熊本城の森がある。その城下にひろがる熊本市は,昭和20年の空襲にあい,約3分1が焼失,都市計画,都市開発が進み,往時の緑地がずいぶん少なくなってきている。都市生活と緑は,いまやわれわれの環境のなかで,必須かくことのできないものになっている。そうした社会的要求は,ひと頃の苗木ブームを巻きおこした。

 昭和41年度から熊本県では,環境緑化,広域緑化を林業施策の1本の柱として,全国的にも先駆的な樹芸林業という新しい事業が開始された。日本には植木の産地として,関東の安行,中部の稲沢,関西の山本,九州の田主丸が4大産地といわれている。こうした地域につづこうとして,熊本県でも環境緑化用の苗木,観賞樹木づくりを始めようというものである。その振興策のひとつとして,昭和42年以降,熊本県他2団体共催して,毎年「樹芸緑化講習会」を開催してきた。九州支場からも毎年講師を派遣してきたが昨年で11回を重ねた。

 こうした樹芸ブームは,肥後が生んだいくたの銘花が脚光をあびることになった。肥後ツバキのごときは,遠く海外にまで「ヒゴカメリア」の名声を高かめるようになってきた。

(2) 肥後の銘花

 肥後の銘花・六花とは,肥後ツバキ,肥後シャクヤク,肥後サザンカ,肥後アサガオ,肥後ギク, 肥後ハナショウブのことである。このことについては,文化史的にも,栽培史的にもいろいろ報告されたものが多い。最近次の2編が肥後六花を紹介している。  

1)新風土記ー肥後六花(熊本県)

 朝日新聞が,全国規模で行なったシリーズのなかで, 51年7月24日から12回に分けて書いている。新聞社という機動力を駆使して,①肥後の朝明け,②キンキラキン,③花連小史,④花とモッコス,⑤くだり花,⑥満月会,⑦陰陽五行,⑧足曳き,⑨牽牛子,⑩植木文助,⑪五月の雨,⑫喜見城の見出しに分けて,ダイナミックに 書きつづられている。細川中興の名君とうたわれた細川重賢公がもののふの園芸のタネをまいて,その花つくりのなかにも,精神修養の場と見立て,厳しい掟(おきて)・作法をつくって,いまに伝えられていることなど,歴史を背景に書かれている。豪華を好む最近の園芸に比べ,これら肥後の銘花は,一重咲き,澄んだ色合い,花芯の力強さが,肥後式士の園芸といわれるゆえんであろう。(文・占部良彦,え・浜田知明氏)

2)肥後六花撰

 誠文堂新光社,肥後銘花保存会編集,昭和50年11月発行の豪華限定版である。門外不出といわれた銘花のかずかずが,オールカラーで初公開されたものである。細川護貞公の序の1節に「肥後の園芸は,細川重賢(細川八代)の頃にみる。医学療再春館を建て,御薬草蓄滋園を作った。そこに植えられた椿や山茶花が残っている。園芸のもっとも盛んになったのは,細川12代斉護(文政十年~万延元年)の頃で,草木・虫・魚・烏などの育種改良が行なわれた。・・・・」銘花の掲載品種はツバキ58品種,シャクヤク30品種,ハナショウブ29品種である。六銘花の歴史は,肥後精神史の系譜につながるともいわれ,この偉大な園芸・栽培史など,郷上史家で当時熊本県林務部参与・村山豪氏,熊本大学粟屋強教授(園芸)によって執筆されている。     


 (林業試験場九州支場調査室 山本常喜・豊島昭和)